【信長史】1574① 武田勝頼の脅威

■浅井父子と朝倉義景のドクロ

天正2(1574)年、信長41歳。

正月1日、前年、恐れていた武田信玄が死去し、将軍義昭を京から追放、宿敵浅井・朝倉氏を滅ぼした信長は、晴れやかな気分で、岐阜にて新年を迎えます。

 

中央政権の実質的な権力者になった信長への挨拶のため、京や近隣諸国の大名や武将らが岐阜城に出仕します。信長は三献の作法で緒将を迎え酒宴を催しました。

 

盛大な宴が終わり、他国衆が退出した後、信長と馬廻り衆のみでさらに宴は続けられました。現在で言う二次会というところでしょうか。ここで、馬廻り衆が驚く“酒の肴”が登場します。前年、討ち取った浅井久政・長政父子と朝倉義景のドクロでした。ドクロは薄濃(はくだみ:漆で塗り固め金泥で彩色したもの)にされ、膳の上におかれていました。これを見ながら唄や舞が繰り広げられたようです。信長は、家臣と前年の戦の話で盛り上がったのか、順風満帆に天下統一事業が進んでいる状況に大変満足し、上機嫌だったそうです。


この話は、『信長公記』によるものですが、どこで話が変わってしまったのか、信長が他国衆などが集まる席上で、ドクロを披露したという話にされてしまい、さらにひどいものでは、ドクロの杯に酒を注ぎ、それを一同の者で回し飲みしたという話まで作られてしまいました。ドラマなどではさらに明智光秀に旧主・朝倉義景のドクロの杯で無理やり酒を飲ませるシーンなどがありましたね。


薄濃のドクロを目の前に酒を飲む行為自体も、あまりいいとは思えませんが、討ち取った首を前にして酒宴を行った武将は他にもいたようなので、信長だけが特別なわけではありません。非情のように言われる信長ですが、さすがにドクロを杯にするようなことはしなかったと思います。


余談になりますが、武田鏡村氏の著書『織田信長 石山本願寺合戦全史』によると「薄濃のドクロを七年間安置して祀れば、八年目にドクロに魂が甦り神通力を与える」という中世に大流行した真言立川流の秘儀であったということです。信長がこのことを意識して浅井氏や朝倉氏のドクロを薄濃にしたかどうかは分かりませんが・・・

 

 

■越前一向一揆の蜂起

1月20日、信長のもとに急使が到着し、越前で守護代・桂田長俊(もと前波吉継)が国衆の反乱により切腹に追い込まれたとの知らせが届きます。

 

桂田長俊は元朝倉氏の家臣でしたが早々に織田方に降っていた武将でした。朝倉氏の滅亡に伴い、信長により越前の守護代に任命されていました。


ちなみに朝倉氏は滅亡と書きましたが、本家筋の朝倉氏が滅んだだけで、越前国内には、義景を自刃に追い込んだ土橋信鏡(もと朝倉景鏡)の他にも安居景健(もと朝倉景健)・景盛・景泰らも織田家に降り越前の本領は安堵されていました。


さて、桂田ですが朝倉家中ではやや下級の武将だったようで、その桂田の配下に列せられていた朝倉の旧臣の中に不満を持つ者が多かったようです。さらにその地位におごった桂田は背後に信長がいるのをいいことに好き勝手な振る舞いが目立っていたようです。


そのような状況で、ついに越前府中城を任されていた富田長繁(長秀)が蜂起します。富田はこともあろうに一向一揆と手を組み一乗谷館の桂田を攻め自害に追い込んでしまいます。さらに北ノ庄にいた明智光秀も襲撃され撤退を余儀なくされました。ちなみに朝倉一族の多くは織田方として一向一揆らと闘ったようですが、景健は一揆衆に攻められ降伏。信長はこれに激怒したそうです。


24日、さらに富田長繁は魚住景固とその次男・彦四郎を府中城に招き謀殺。


25日、次いで一向衆らと共に魚住景固の居城・鳥羽野城(魚住館)を攻め、景固の嫡男・彦三郎も討ち取ります。


この富田長繁の蜂起は、本願寺顕如が裏で糸を引いていた可能性が高く、直後、加賀より坊官・七里頼周が派遣され一向一揆は富田から七里の指揮下に入ることになります。七里率いる一揆勢は、味方であったはずの富田長繁を攻撃し殺害します。さらに勢いに乗った一向一揆は、平泉寺を襲撃します。朝倉景鏡は平泉寺の僧兵と手を組んで一向一揆に抵抗していましたが、勢いに勝る一揆勢により討ち取られ平泉寺も滅亡してしまいます。
これにより越前はほぼ一向一揆により支配され、隣国加賀と共に一揆の持ちたる国となってしまいました。

信長はこれに対し羽柴秀吉や丹羽長秀らを越前敦賀に派遣しますが本格的な攻撃はしませんでした。武田家が再び動き出す気配を見せていたためです。

 


■美濃明智城の陥落

 武田勝頼
 武田勝頼

1月、武田信玄の死は、この時点ではまだ隠されていたようですが、すでに周知の事実でした。そして家督を正式に相続したのは真偽は不明ですが、信玄の孫で武田勝頼の嫡男・武王丸(後の太郎信勝)だったそうで、勝頼はその陣代(後見役)であったといわれています。ちなみに武田信勝の母は信長の養女なので、系図的には信勝は信長の孫に当たることになります。

 

話がそれましたが、越前の一向一揆と連動するように武田勝頼も信濃から美濃方面へ軍勢を進める気配を見せていました。この情報により信長は越前の一向一揆に対し主力を傾けることが出来ませんでした。


27日、武田勝頼が美濃岩村へ軍勢を進め明智城を包囲したとの情報が信長のもとへ入ります。ちなみに、この時期、美濃・岩村は武田方が支配していました。三方ヶ原の合戦の折、武田軍の別働隊を指揮した秋山虎繁(信友)が岩村城を陥落させています。


2月1日、信長は尾張・美濃の軍勢に出陣を命じます。


5日、信長自身も嫡男・信忠と共に御岳(可児郡御岳町)に出陣。


6日、高野(瑞浪市)に陣を構えます。この一帯は山岳地帯の難所続きで、武田軍への総攻撃に手間取っている間に明智城の飯羽間右衛門尉が武田に内通し、明智城は落城してしまいます。信長は、明智城の奪還をあきらめ、押さえとして高野と小里(瑞浪市)に砦を築き、高野には河尻秀隆、小里には池田恒興を城番として置きます。


24日、信長は岐阜城に帰還。

 

 

■蘭奢待の切り取り

 蘭奢待
 蘭奢待

3月12日、信長は京に向け出発します。今回の目的は、奈良・東大寺の正倉院に収蔵されている香木・蘭奢待(らんじゃたい)を天皇より“賜る”ためでした。

 

蘭奢待は天皇家の宝物で信長以前に切り取りを許されたのは、室町幕府3代将軍義満、6代・義教、8代・足利義政、土岐頼武のみとみられ、いかに将軍であっても簡単に許されるものではありませんでした。信長も一度は断られたという話もあり、実際にはかなり強圧的に切り取りの許可を迫ったものと思われます。

 

ただ、東大寺の僧の日記には「正倉院に入るのは恐れ多いから、滞在先(多聞山城)まで持ってきてほしい」「延焼防止のため、(正倉院の?)四方に壁を作ったほうがいい」という内容が記されているそうで、天皇家の宝物を賜るに当たり、信長もかなり気遣いをしたようです。

 

ちなみに信長以後は、確認されているのは明治天皇のみで、徳川家康も切り取ったのではないかという説もあります。


26日、朝廷より日野輝資とか飛鳥井雅教が勅使として派遣され、蘭奢待の切り取りを許す綸旨を伝達します。


27日、信長は早速、奈良の多門山城(多聞山城)へ入ります。そして東大寺へ特使として塙九郎左衛門・菅谷長頼・佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・蜂屋頼隆・荒木村重・武井爾伝・松井友閑・津田坊(信澄?)というそうそうたる家臣団を派遣します。


28日、長さ六尺(約1.8m)の長持に入れられた蘭奢待(自体は長さ160cm、重さ11.6kg)は、信長の待つ多門山城の御成りの間に運ばれます。信長は、先例に習い一寸八分(約5.5cm)を切り取り、同席した家臣らにも「後の話の種によく見ておくが良い」と語ったそうです。


信長が切り取ったとされる部分は、蘭奢待の付箋が正しいとすると画像の真ん中の付箋部分になります。ちなみに付箋の右は8代将軍足利義政、左は明治天皇になります。信長は、この蘭奢待を細かく分け家臣らに惜しげもなく与えた用ですが詳細は分かりません。


2006年1月のニュースで、この蘭奢待の研究結果が報告されましたが、これによると蘭奢待を切り取った権力者は数名しかいませんが、確認されただけでも切り取り跡は38ヶ所にもおよび、実際は50ヶ所くらいは切り取られたのではないか?ということでした。
さらに「切り取ったのは誰か?」という疑問に「現地や日本への移送時に手にした人たちや正倉院を管理していた東大寺の関係者らではないか」と研究者の方は答えられています。
内部犯行、十分考えられますよね。「ちょっとだけならバレないだろ~」みたいな感じで切り取った人が長い歴史(1000年以上)の中で何人かいても不思議ではないし、もしかしたら現代でも?!


余談ですが、“蘭奢待”の文字の中には『東』『大』『寺』(東大寺)の三文字が隠れているのは有名な話ですね。

 

 

■石山本願寺の再挙兵

4月3日、石山本願寺が和睦を破り再び挙兵します。1月の段階で一向一揆が越前を占拠し、加賀より顕如の命を受けた七里頼周らが入った時点で実質的に講和は破られていましたが・・・

 

顕如は、信長が蘭奢待の切り取りと称し奈良に入りましたが、そのまま一気に大坂の石山本願寺を攻めると考えたのかもしれません?
そして、この挙兵には京を追放され、この時期、紀伊・由良の興国寺にいた足利義昭が暗躍していました。依然、将軍の座にあった義昭は京に戻り幕府を再興するため御内書を本願寺の顕如をはじめ武田勝頼・上杉謙信・北条氏政らに送り打倒信長を促していました。


挙兵した本願寺勢は、まず織田方の摂津・中嶋城を陥落させます。この中嶋城攻めに参加していたかは不明ですが、この時期石山本願寺には摂津を追われていた池田勝正や讃岐の香西越後守、さらに雑賀の鈴木孫一が居たそうです。
そして時を同じくして織田方であった、河内・高屋城の三好康長と遊佐信教が信長に反旗を翻します。


12日、信長は細川藤孝と筒井順慶に石山本願寺攻めを命じます。はっきりしませんが他にも明智光秀や柴田勝家・荒木村重らも出陣したと言う説もあります。


13日、本願寺攻めの最中のこの日、近江では石部城(滋賀県甲賀郡石部町)に籠もり抵抗を続けていた六角義賢が、夜陰に紛れ雨の振る中、城を捨て退去しました。これを知った信長は佐久間信盛を入城させています。


石山本願寺を攻める織田軍は、住吉や天王寺一帯を焼き払い、高屋城では遊佐信教を討ち取るなどしたものの決定的な打撃を与えることができませんでした。

 

28日、信長は河内・摂津より撤退することになります。

 

 

■賀茂祭の競馬

5月5日、上賀茂神社で1073(寛治7)年から現在も毎年5月5日に行われている賀茂祭の奉納行事として行われている加茂競馬が行われます。

 

賀茂祭は現在、世界文化遺産「古都京都の文化財」のひとつとして登録されている、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)で行われている京都三大祭のひとつで葵祭りとも呼ばれているようです。


さて、その賀茂競馬に神社から「信長の馬を競馬に出場させていただきたい」と依頼されます。快諾した信長は、勝ち戦で何度も騎乗した自慢の芦毛と鹿毛の駿馬2頭を出馬させることにし、さらに馬廻り衆の駿馬18頭も出場させることにします。
この合計20頭の馬には、豪華な鞍・鐙(あぶみ)・轡(くつわ)などの馬具を着けさせ、さらにこの馬を引く、舎人たちも美しく着飾らせ、壮観だったようです。馬には黒装束をまとった神官と赤装束をまとった神官10人ずつが騎乗し、他の馬と勝負をしたようです。信長が出場させた馬は全て競走に勝利したようで、信長も大満足だったことでしょう。この競馬は話題になったようで多くの見物人が集まったそうです。


28日、信長はしばらく京に滞在していましたが、この日、岐阜へ帰国しました。

 

 

■遠江・高天神城、落城

6月5日(5月15日説もあり)、岐阜城の信長のもとに徳川家康からの使者が到着し、武田勝頼が遠江の高天神城(静岡県小笠郡大東町)を包囲したとの報告を受けます。

 

高天神城を守るのは、徳川配下の小笠原長忠。この時の城兵の数は不明ですが、対する武田軍は2万。長忠は籠城を余儀なくされます。
高天神城の危機に家康は出陣を考えますが徳川軍はわずかに1万弱。三方ヶ原の合戦で武田信玄に大敗した記憶が鮮明に残っていたであろう家康は信長の救援を待ちます。しかし、頼みの信長はこの時なかなか出陣できませんでした。越前や伊勢・石山など各地の一向一揆の動向を警戒していたのかもしれません。


14日、信長は嫡子・信忠を従えて、ようやく出陣します。


17日、信長父子は、三河の酒井忠次の居城・吉田城に着陣します。

しかし、時すでに遅く、この頃、武田軍の高天神城総攻撃がはじまっていました。そして、援軍をあきらめた高天神城城主・小笠原長忠は武田に降伏してしまいます。


19日、高天神城救援のため、今切の渡し(浜名湖新居町~舞阪町)を渡ろうとしていた信長のもとに高天神城落城の知らせが届きます。


『高天神城を制するものは遠州を制す』
勝頼は、かつて父・信玄が2万以上の兵を動員し死傷者を多く出しながら落せなかった高天神城を数週間で落し、国内外に武威を示し着実に領国を拡大していきます。


信長は、なすすべなく吉田城に退却します。さらに、信長はこの度の救援失敗の詫びとして、家康に兵糧代として黄金袋二つ(量は不明ですが、一袋を二人がかりで持ち上げたそうです)に馬もつけて贈ります。この袋の中を見た徳川家中の者は仰天し、信長の威勢を改めて実感したようです。


21日、信長父子は岐阜に帰国。
東に武田、北に越前一向一揆、南に雑賀や伊勢・長島の一向一揆、西には本願寺の本拠・石山の顕如。ジワジワと織田領を圧迫していきます。