【信長史】1578③ 第二次木津川河口海戦

■徳川家康VS武田勝頼 天正6年の攻防

天正6(1578)年10月の荒木村重の謀反で、西国戦略が大きく狂ってしまった信長ですが、この頃、盟友である徳川家康はどうしていたのでしょう?

この年3月に上杉謙信が死去し、上杉家では景勝と景虎は後継者争い(御館の乱)を繰り広げ、手薄となった越中や加賀方面では織田家の柴田勝家や斎藤新五郎らが、北陸方面で徐々に勢力を伸ばしつつありました。

そして、同月、家康は、武田方の遠江の高天神城に対する拠点として横須賀城を築城し、さらに五つの砦も築きます。この完成と共に家康は松平家忠らに命じ、半年に渡り断続的に武田方の田中城・小山城などを攻撃させます。

武田勝頼は、上杉家の後継者争いに当初、上杉景虎の実兄である北条氏政の要請で景虎派として参戦します。苦境に立たされた景勝は、領地である上野郡沼田を武田家に譲って和議を結び、さらに勝頼の妹・菊姫を正室として迎え、同盟を結んでしまいます。

勝頼も西の織田・徳川勢が虎視眈々と、駿河・信濃を狙っている状況で、長期戦は望んでいなかったので、早々に有利な条件で和議を結び上杉家の内紛から手を引いたのかもしれません。

6月、勝頼は甲斐に撤退してしまいますが、北条氏を裏切ったことにより、のちに大きな代償を払うことになります。

9月、勝頼に裏切られた北条氏政は、仕方なく自ら景虎の援軍として景虎の援軍に向かいますが、景勝に敗退してしまいます。

10月、荒木村重が謀反を起こしたこの月、北の上杉氏、東の北条氏の脅威が少なくなった勝頼は、徳川軍を牽制すべく動き出します。大井川を越え遠江に侵攻。

11月、横須賀城に迫り、徳川軍とにらみ合いますが、結局合戦には至らず、勝頼は高天神城に撤退することになります。

このような状況で、家康は苦境に陥った信長に援軍を送ることが出来ずにいました。

 


■第二次木津川河口海戦

10月の荒木村重の離反で苦境に立たされた信長は、この危機を打開する一手を打ってきます。朝廷を利用し本願寺・毛利と和議を結び、その間に荒木村重に追随した高山右近や中川清秀らを調略し村重を討つ計画を立てます。

信長は早速、正親町天皇に打診。正親町天皇は、公家の庭田大納言重保と勧修寺中納言晴豊を勅使として本願寺に派遣します。

しかし、本願寺の顕如は10月17日の時点で、荒木村重・村次父子と誓紙を交わし、村重が人質を送ることになっており、どのような状況になっても本願寺は荒木を見捨てない約束をしていました。この背後には、毛利家に身を寄せていた“将軍”足利義昭が暗躍していたようです。

このような密約もあり、圧倒的に有利な状況でもあったため和議をすんなりとは受け入れませんでした。顕如は返事を引き延ばしこの間に毛利家と連絡を取り合います。

11月4日、しびれを切らせた信長は、朝廷に対し圧力を掛け、織田と毛利が講和するよう記した綸旨(天皇の意思を伝える命令書)をとりつけます。
勅使の庭田・勧修寺は、この綸旨を手に安芸の毛利輝元のもとへ向かう準備を進めていました。

6日、勅使の出発直前、毛利水軍600隻の大船団が大坂湾に姿を現します。もはや和議は不可能な状況になってしまいます。


織田水軍が毛利水軍に大敗を喫してから二年。再び織田水軍は毛利水軍と戦うことになります。しかし、今回、九鬼嘉隆率いる織田水軍はわずか6隻ではあるものの大砲・長銃を備えた大型の鉄甲船を保有し、その周りには、護衛のための小型船も配備。

毛利水軍は数の上で圧倒的に有利で数隻の指揮艦を中心に組織的な攻撃をしかけ、序盤、織田水軍はやや押されぎみで戦いは進みます。しかし、体勢を立て直し、秘密兵器である大砲・長銃を繰り出し織田水軍の反撃が始まります。敵指揮艦に狙いを定め次々に撃破。指揮を失った毛利水軍は各個に撃破され散り散りに逃げ始めます。

戦いは織田水軍の大勝利に終わり、以後大坂湾は完全に封鎖され本願寺への兵糧や武器の供給は途絶えることになります。

 

 

■黒田官兵衛の幽閉と竹中半兵衛の機転

 黒田官兵衛
 黒田官兵衛

11月6日、木津川海戦にて毛利水軍を撃破した信長ですが、この戦いの前か後か分かりませんが、当時小寺官兵衛と名乗っていた黒田官兵衛(孝高・如水)は、荒木村重を説得するため摂津・有岡城に単身で乗り込みます。これは、当時の官兵衛の直接の主君である小寺政職の意向によるものだったようです。

官兵衛は早い時期から織田家に着くのが得策と主君・政職を説得。さらに周辺の豪族へも働きかけていました。その説得が実り、秀吉が播磨に乗り込んできたときにはいち早く織田方に服属していました。

しかし、荒木村重の謀反に際し主君である小寺政職は荒木村重と共に毛利方に寝返る密約を交わしていました。これを知った官兵衛は、反対したようです。
それに対し、小寺政職は官兵衛に村重を説得できれば、自分も考えを改めるとし提案したようです。

これを受け村重説得のため有岡城に赴いた官兵衛ですが、説得に失敗。
村重は、織田家に人質(松寿丸)を送っている官兵衛は織田家に内通していると疑い、官兵衛を幽閉してしまいます。以後、官兵衛の幽閉生活は1年にもおよび、その間に足が不自由になってしまいます。

この幽閉は、小寺政職が目障りな官兵衛を退けるため村重と謀ったとも言われています。結局、小寺政職は荒木村重と共に毛利方へ寝返ってしまいます。

信長は、小寺政職の離反に加え、村重のもとから帰ってこない官兵衛も疑い、人質となっていた官兵衛の嫡子・松寿丸を殺害するよう秀吉に命じます。
しかし、竹中半兵衛(重治)は、「上様(信長)の命とはいえ従うことは出来ない」とし、松寿丸を半兵衛の領国・美濃菩提山城に隠し、信長へは「松寿丸は殺した」と報告します。

このわずか7ヶ月後の天正7(1579)年6月13日、半兵衛は36歳の若さで病死してしまいますが、命を助けられた松寿丸は、黒田長政として戦国の世に影響を与える武将に成長し、信長・秀吉・家康のもと天下統一のため活躍していきます。

 

 

■高山右近と中川清秀の降伏

11月9日、信長は木津川河口海戦で九鬼嘉隆率いる織田水軍が毛利水軍を撃破したとの報を受け摂津・有岡城の荒木村重を討伐するため自ら軍勢を率い京を出立。

10日には、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀や稲葉一鉄ら美濃衆などに命じ有岡城攻めのため高槻・茨木一帯に砦を築かせます。さらに織田信忠・信雄・信孝・信包ら一族および不破直光・前田利家・佐々成政・金森長近ら越前衆に加え日根野弘就・弘継も出陣し天神山に砦を築きます。信長がこの時率いたのは約3万の大軍勢でした。

この大軍勢を前に荒木村重やその一族、追随した高槻城の高山右近、茨木城の中川清秀らは籠城するしか道がありませんでした。

信長はこの圧倒的兵力を背景に一計を案じます。
キリシタンである高槻城の高山右近に対し、宣教師オルガンティーノを派遣し説得をするよう依頼します。この時信長は目に涙を浮かべながら頼み、「成功すれば教会を自由に建設しても良い」といい、その一方でもし説得が「失敗すればキリスト教を禁教とし弾圧する」と恫喝します。

これを聞かされた右近は、村重のもとに人質を差し出していましたが説得に応じ信長に降伏します。

16日、右近は信長のもとに挨拶に参上し、喜んだ信長は着ていた小袖を脱ぎ右近に与えます。

信長は、中川清秀の茨木城に対しても各地に砦を築き圧力をかけ、説得の使者に古田重然(織部)・福富秀勝らを送ります。

24日、毛利水軍の敗北に加え、右近の戦線離脱に村重の従兄弟に当たる中川清秀も織田方へ寝返り、共に籠城していた石田伊代・渡辺勘大夫らを追放し、織田軍を城内に引き入れます。

28日、織田軍は荒木志摩守元清の立て籠もる花隈城を包囲。山中に逃げ込んだ農民や付近の寺社の僧俗・男女を問わず皆殺しにし、建物も焼き払います。

徐々に村重の籠もる有岡城は孤立していきます。

 

 

■大和田城主・安部二右衛門の計略

12月1日、秀吉配下の蜂須賀小六正勝の説得に応じ、尼崎に隣接する大和田城の城主・安部二右衛門が、すでに織田方に内通していた芝山監物と共に小屋野(兵庫県伊丹市)に本陣を構える信長のもとに密かに挨拶に訪れます。喜んだ信長は、安部と芝山の二人に黄金200枚与えます。

城に戻った安部二右衛門の話を聞いた父と祖父は、「本願寺の顕如と村重に対し申し訳ない」とし、織田に付くことに猛反対し、天守に立て籠もります。
説得を断念した二右衛門は、一計を案じます。まず、芝山監物を通して、事の次第を告げ、信長に黄金を返還してきます。

さらに信長の家臣である蜂屋頼隆と阿閉貞征の陣に鉄砲を撃ちかけてきます。
その上で、叔父を使者に立て、織田には寝返らない旨を伝えさせ、同様に顕如と尼崎の荒木新五郎村次(村重の嫡男)にも報告します。

完全に信じきった二右衛門の父と祖父は天守から降りてきます。この機会を狙っていた二右衛門はすぐさま父と祖父を取り押さえ人質として織田軍に引き渡します。

12月3日、二右衛門は再度、信長の陣に赴き詳細を報告します。これを聞いた信長は感心し、先の黄金200枚に加え、差していた秘蔵の“左文字の脇差”と馬・馬具を与え、さらに摂津の川辺郡の支配を任せます。この時仲立ちをした芝山監物にも馬を与えました。

なお、この時、二右衛門に与えた“左文字の脇差”は、桶狭間の合戦で今川義元を討ったとき義元が身につけていた宗三左文字とは別物です。

 

 

■万見仙千代の討死と有岡城の包囲

12月、大和田城の安部二右衛門や芝山監物の寝返りにより、苦境に立たされた荒木村重ですが、それでも尼崎城の長男・村次や一族が付き従っていました。

信長は、荒木一族が敵対している状況ながら毛利水軍の撃破に加え、高山右近(重友)・中川清秀の降伏など情況が好転したため本願寺との間に進めていた和睦を撤回し、安芸の毛利氏に送る予定だった勅使の派遣も中止します。

12月4日、滝川一益・丹羽長秀に命じ、有岡城攻撃の手始めとして、一の谷(兵庫)を焼き払い有岡城をけん制し、塚口(尼崎市)も陣取らせます。

8日、ついに信長は村重の籠もる有岡城総攻撃を全軍に命じます。
先陣として堀秀政・万見仙千代重元・菅谷長頼が鉄砲隊を率い攻撃を開始。さらに弓衆を三隊に分け城下町に火矢を打ちかけ町を焼き払います。

しかし、有岡城は頑強な城で、織田軍は苦戦を強いられます。
大軍を擁しながら攻めあぐねる状況に焦りからか、信長は力攻めを強行。
夕方から夜にかけ攻めつづけ馬廻衆に城内への突撃を命じます。この無謀な力攻めにより側近筆頭格の万見仙千代が討死。

信長は、最愛の万見仙千代の死で逆に平静さを取り戻したのか、力攻めから一転、包囲作戦に切り替えます。

11日、信長は本陣を古池田に移し、諸将に各地に砦を築くよう命じます。
塚口には、丹羽長秀・蒲生氏郷・織田信孝・高山右近(重友)他。
毛馬村には、織田信包・滝川一益・織田信雄他。
倉橋には、池田恒興・元助・幸親父子。
原田には、中川清秀・古田重然(織部)。
刀根山には、稲葉一鉄・氏家直通・伊賀平左衛門他。
郡山には、津田信澄。
古池田には、塩川伯耆。
賀茂には、織田信忠。
高槻には、大津長治・生駒一吉・生駒一正・猪子次左衛門・村井貞成・武田左吉他。
茨木には、福富秀勝・下石彦右衛門・野々村正成。
中島には、中川清秀(原田とは別の隊か?)
一つ屋には、高山右近(塚口とは別の隊か?)
大和田には、安部二右衛門。

蟻の這い出る隙間も無い布陣で、村重の籠もる有岡城を完全包囲。
尼崎や花隈の荒木方の城には毛利軍や本願寺の門徒もわずかながら参陣していましたが、とても織田軍に対抗できるほどの兵力は無く、籠城を余儀なくされます。

信長は、さらに羽柴秀吉に佐久間信盛・明智光秀・筒井順慶を加え、播磨へ出陣させ、道場河原・三本松に砦を築かせ、別所長治の三木城を包囲している各砦に物資の補給を命じます。

 

 

■明智光秀の丹波・八上城攻め

12月、摂津の荒木村重攻めにつづき播磨・三木城の別所長治包囲戦の後方支援を終えた明智光秀は休む間もなく、本来の任務である丹波攻略を本格的に再開します。

別所長治・荒木村重の相次ぐ謀反により頓挫していた丹波平定戦は既に三年目を迎えていましたが依然、有力国人である黒井城の赤井氏や八上城の波多野氏が抵抗を続けていました。

黒井城の萩野(赤井)直正は、この年3月に既に病死していましたが、本来の当主である甥の赤井忠家は健在でした。しかし、実力者の直正の死でその勢力はかなり衰えている状況でした。

余談ですが荻野直正の二人目の正室(最初の正室とは死別)は、本能寺の変の黒幕説もある近衛前久の妹です。

12月中旬、このような状況で、光秀がまず狙ったのは、八上城の波多野秀治・秀尚兄弟でした。光秀は、播磨から取って返すとすかさず八上城を包囲。

明智軍のみでありながら堀や柵を幾重にも張り巡らせ八上城を完全に孤立させ、以後半年に渡り包囲することになります。

21日、荒木村重攻めのため古池田(大阪市池田市)に本陣を構えていた信長は、京都に帰陣。

 

25日には安土へ帰国します。

 

 

この年、荒木村重の子でのちに絵師として活躍する岩佐又兵衛が誕生。