【信長史】1564 尾張平定

■竹中半兵衛の反乱

 竹中半兵衛
 竹中半兵衛

永禄7(1564)年信長31歳。

2月、美濃国で大事件が起きます。道三・義龍の後を受けて国主になっていた斎藤龍興ですが、領国経営を怠り酒や女に興じる日々を過ごしていました。このため家臣領民の心は徐々に離れていきます。

 

美濃国内の乱れを案じた安藤守就は龍興を諌めますがまったく聞き入れられませんでした。そこで守就は娘婿の竹中半兵衛と一計を案じます。


当時、稲葉山城内には半兵衛の弟がいましたが、その弟が病気になります。この病も仮病で作戦のうちだったかもしれませんが、その見舞いと称し、半兵衛は武器を隠し持った共の者、十数名を引きつれ城内に入ります。そして、夜を待ち挙兵。驚いた龍興以下家臣らは城外に慌てて逃げ出します。

この挙兵とともに、安藤守就も1000の兵を率いて半兵衛に加勢したようで、この後しばらくの間、半兵衛は稲葉山城を占拠します。


この事件を知った信長は、半兵衛に稲葉山城を明け渡せば美濃半国を与えると、話を持ち掛けますが半兵衛は拒絶。逆に龍興に城を返還し、以後自らは隠居してしまいます。この時、竹中半兵衛重治、若干21歳でした。


半兵衛は色白で華奢だったらしく、同僚から馬鹿にされショウベンを引っ掛けられたというエピソードもあり、龍興に対する戒めの目的以外にもこうした不満もこの反乱に走らせた原因だったかもしれません。

 

そしてこの混乱が、さらに美濃国内の結束を乱していき信長のつけ入る隙を生むことになります。

 

 

■犬山城、攻略

 犬山城・天守
 犬山城・天守

8月頃、美濃・斎藤家の家臣・佐藤紀伊守とその息子・右近右衛門が岸良沢という者を使者として信長に味方することを丹羽長秀に伝えてきます。

佐藤父子は犬山城の対岸(木曽川)の斎藤領にある宇留摩城と猿啄城(サルバミ)という二つの城のさらに五里(約20Km)奥にある加治田城の城主。この報告に信長は大喜びし、使者の岸良沢に黄金50枚を渡し、佐藤父子に兵糧を蓄えておくよう伝えさせます。

 

ほぼ同じ頃、犬山城の家老・和田定利と中島豊後守も信長に味方することを丹羽長秀に申し入れてきます。この両家老が内通したのを機に丹羽長秀が大将となり犬山城に攻め込みます。長秀は城下を焼き払い城を丸裸にすると、鹿垣(シシガキ:柵)を二重三重に張り巡らし犬山城を包囲します。もはや勝ち目なしと見た犬山城主・織田信清は降伏し、犬山城は陥落します。


この後、信清は流浪し、甲斐の武田氏を頼りこの地で、犬山鉄斎と称し暮らすことになります。


犬山城の落城により、ようやく信長は尾張を完全に平定します。父・信秀が死去し家督を継いでから13年の歳月が流れていました。

 

 

■美濃・宇留摩・猿啄両城攻略

8月、犬山城攻略直後、信長はいよいよ本格的に美濃攻略を開始します。まず、木曽川を越え伊木山(岐阜県各務原市)という所に堅固な砦を築きます。この伊木山は斎藤方の宇留摩・猿啄両城からわずか十町~十五町(1~1.5km)しか離れていない上、両城を見下ろすことの出来る高山でした。

 

そしてこの宇留摩・猿啄両城の北方には、すでに信長に味方することを伝えている加治田城の佐藤父子がいたため、宇留摩・猿啄は挟み撃ちされる状況に陥りました。戦況不利と見た宇留摩城主・大沢基康はたいした抵抗もせず降伏し城を明け渡し退去します。

 

一方の猿啄城は高台に築城されていましたが、城の上には“大ぼて山”という山がありました。この山に丹羽長秀が攻め上り給水源を占拠します。猿啄城は上下から攻撃を受ける状況になり、城主の多治見修理は降伏して退去します。
信長は美濃南部の宇留摩・猿啄を拠点とし、美濃攻略を推し進めることになります。

 

この年、松平元康(のちの徳川家康)はようやく三河の一向一揆を平定します。

さらにこの年浅井長政の嫡男・万福丸が誕生したとされていますが、信長の妹・市と長政の結婚がいつ成立したかはっきりしないため生母は不明です。