【信長史】1573② 浅井家と朝倉家の滅亡

■天下人・織田信長の誕生

 織田信長
 織田信長

元亀4(1573)年、信長40歳

7月18日、足利義昭を京から追放したことによって、京を抑えていた信長は事実上の中央政権の権力者、言い換えれば天下人になったことになります。

 

研究者の中には、これをもって戦国時代の終焉とする考えの方もいます。ここから先は天下人・織田信長の天下平定戦の始まり。織田・豊臣(織豊)時代あるいは安土桃山(安土伏見)時代の始まりという考えのようです。この考えに近い別の意見としては、信長が義昭を奉じて上洛した時点を上げる方もいます。


個人的には、依然、武田や上杉・北条・毛利・長宗我部さらに九州には島津東北には伊達など全国に群雄が割拠している状況で、信長が京を抑えてはいましたが征夷大将軍になったわけでも関白になったわけでもないので、この時点で戦国時代の終わりという考えは否定的ですが、いずれにしても信長は義昭追放後、天下統一事業を一気に加速させます。

26日、信長は再び大船を利用し、近江の高島に向け出陣。そして、またたく間に木戸・田中の両城を陥落させ明智光秀に与えます。


一方、同じ頃、淀方面では足利義昭の命に従い挙兵していた石成(岩成)友通・番頭大炊頭(ばんがしらおおいのかみ)・諏訪飛騨守の三人が城に立て籠もり義昭降伏後も頑強に抵抗していました。しかし、秀吉の調略により番頭大炊頭と諏訪飛騨守の二人が織田方に内通します。

 

信長は、この機を逃さず細川藤孝に淀の城を攻めさせます。番頭と諏訪の計略により石成友通は城外に飛び出します。罠にはまった石成は細川家臣・下津権内に討ち取られます。下津はその首を近江・高島の信長の陣に持参し、褒美として信長が着用していた胴着を賜ります。この石成の死により京は平定されたことになります。


28日、信長は、京を平定したのを機にかねてからの懸案である改元を朝廷に上奏。朝廷は信長の意見を入れ、元号を「元亀」から「天正」へ改めます。「天正」の出典は『文選』の「君以下為基、民以食為天、正其末者端其本、善其後者慎其先」と『老子』の「清静者為天下正」からだそうです。

信長にとって苦難の連続だった「元亀」の元号はこうして終わりをつげ、「天正」が幕を開けます。 

 

 

■大嶽・丁野山城、占拠

8月4日、足利義昭追放後の政務を終え岐阜に帰国します。しかし、信長はわずか4日間の滞在で再び出陣することになります。

 

8日、信長は北近江に向け出陣します。浅井家臣で小谷城の西、琵琶湖岸にある山本山城の城主・阿閉貞征が織田方に寝返ったという情報を得ての出陣でした。

 

このときの織田軍の兵数は不明ですが、直前の足利義昭との戦いでは一説に7万の兵を動員したという話があるので、このときも数万規模の軍勢だったと思われます。


阿閉の離反を知った浅井長政は、人質に取っていた阿閉の10歳の息子を処刑します。しかし、離反は相次ぎます。織田軍の急襲に浅井方の月ヶ瀬城兵も降伏し、城を明け渡します。


10日、信長は小谷と朝倉氏の領国・越前の道を遮断するべく、小谷と同じ山づたいにある浅井方の砦がある大嶽山の北方・山田山に全軍を集結させ陣を張ります。


朝倉義景は、浅井氏からの救援要請を受け、従兄弟の朝倉景鏡に出陣を命じますが、病気を理由に断られます。仕方なく義景自ら2万の軍勢を率い北近江に出陣しますが、この時、有力家臣の魚住景固も出陣を拒否。朝倉家も崩壊が始まっていました。朝倉氏の救援が到着したにもかかわらず、浅井家臣の離反も続きます。


12日、大嶽の麓の焼尾城を守る浅見対馬が織田方に寝返り、織田軍の兵を引き入れます。この機を逃さず信長は嫡男・信忠に虎御前山城の守備を任せ、この夜、大雨の中、自ら馬廻衆を率い大嶽の砦を急襲。守備兵わずか500人の大嶽の砦は戦うことなく降伏します。この地は朝倉軍が浅井氏救援の際の拠点としていた重要な地であり、この地を失ったことは浅井・朝倉にとって大きな痛手となりました。


13日、大嶽を占拠した信長はひとつの策を用います。大嶽の守備兵をわざと逃がします。さらに大嶽近くの丁野山城をあっけなく陥落させますが、この城の守備兵も逃がします。ここで信長はひとつの予言をします。

「必ず今夜、朝倉は退却する。朝倉義景を逃さぬよう、十分注意せよ」

これを諸将に厳命します。

 

 

■朝倉氏本拠・一乗谷陥落

8月13日、大嶽の北方約5キロの木ノ本に本陣を構える朝倉義景は、次々に味方の兵が敗走して逃げ込んで来る状況に動揺します。そして、その日の深夜、信長の予想通り朝倉軍は密かに退却を始めます。

 

信長はこの退却時を狙うよう各部隊に再三命じていましたが、作戦通り事が運ぶと思っていなかった緒将は、朝倉のこの動きを見逃します。苛立った信長はまたも自ら馬廻り衆を率い追撃を開始します。この動きを知った各部隊も慌てて信長に続きます。地蔵山という所を越したあたりで緒将は信長に追いつきます。


ここでひとつの出来事が起こります。再三、この機を逃さぬよう命じていたのに、これを怠った緒将を信長は叱責します。柴田・滝川・丹羽・秀吉らはひたすら詫びを入れますが、ひとり佐久間信盛が涙を流しつつも「そうはおっしゃいましても、我々ほどの家臣はお持ちになれますまい」とうぬぼれたことを言ったので、信長はさらに激怒したようです。余談ですが、信盛のこの一言は後に織田家追放の一因にもなります。


そんな状況の中、織田軍は敗走する朝倉軍に次々と攻め掛かり、多くの敵を討ち取ります。途中、朝倉軍は二手に別れ逃走します。一方は中野河内(滋賀県の余呉町)方面、もう一方は、引壇・敦賀城のある刀根(福井県敦賀市)方面。織田の緒将の間でどちらを追うか議論になりますが、信長が「(義景は)引壇・敦賀の城を目指すだろう」ということで刀根方面へ追撃軍を進めます。


ここでも信長の予想は的中し、朝倉義景は主力を率いて敦賀城を目指します。しかし、ついに刀根山の山上で織田軍に追いつかれた朝倉軍の一部がここで一戦に及びます。しかし、奮戦むなしく壊滅。ここまでの追撃で朝倉方の死者は3000を超えていたといわれます。そしてこの討ち死にした朝倉軍の中に元美濃の国主・斎藤龍興の姿がありました。この織田軍の猛追に義景は、敦賀城をあきらめ一乗谷を目指します。


14日から16日にかけ信長は敦賀に駐屯し、降伏した朝倉の家臣から人質を取るなどし朝倉氏にとどめを刺す準備を進めます。


17日、信長は、三年前、義弟・浅井長政の裏切りで越えることが出来なかった運命の木目峠(木ノ芽峠)を越え、越前中央部を目指します。


18日、信長は府中の竜門寺に陣を構えます。朝倉義景は、もはや一乗谷では織田軍を迎え撃つことが出来ないと判断し、一乗谷の館を捨て、一族や残った家臣を引き連れ山田庄六坊賢正寺(大野市)に退去します。公家のような高貴な衣装をまとった婦人たちが徒歩で落ち延びる姿は哀れだった様です。

 

この日、信長は諸将に朝倉義景の追撃と朝倉残党の探索を命じます。その結果、数日間で数百人が捕らえられ首を切られました。織田軍の探索は平泉寺にも向けられましたが、僧達は信長に忠誠を誓い織田軍に加勢します。なお、平泉寺の僧兵は一乗谷の館の焼き討ちにすでに参加していたという話もあります。 

 

 

■朝倉義景の自刃

 朝倉義景
 朝倉義景

8月20日、窮地に追い込まれた朝倉義景に追い討ちをかけるように最大の裏切り者が現れます。重臣筆頭で従兄弟の朝倉景鏡(かげあきら・かげあきとも)でした。義景は景鏡を頼りますが、景鏡は、逆に義景を包囲し切腹を迫ります。

 

逃げ場を失った義景は武士として最後の意地を見せます。家臣の鳥居与七と高橋景業に介錯を命じ、自刃して果てます。享年41歳。信長より一歳年上の朝倉義景の死によって越前に五代百年にわたって君臨した名門朝倉氏は滅亡しました。義景の後を追って介錯人の鳥居与七と高橋景業も切腹して果てます。


義景は死の直前、「憎き景鏡め、われ死すとも、三年のうちに汝の命を取ってやる!」と言い残したそうです。その言葉通り、景鏡は翌年一向一揆によって平泉寺にて討ち死にすることになります。


24日、義景を切腹に追い込んだ朝倉景鏡は、義景の首を竜門寺の信長本陣に持参し本領を安堵され、後に名を土橋景鏡と改めます。数日後、義景の首は長谷川宗仁によって京に運ばれ晒されます。


同じ頃、信長は義景の母と嫡男・阿君丸も見つけ出し丹羽長秀に命じ殺させます。これにより朝倉氏嫡流は完全に途絶えることになります。そして、義景の死を知った越前の地侍たちは次々と信長本陣に挨拶のため訪れごった返しになったそうです。


26日、越前を平定した信長は朝倉の旧臣・前波長俊(もと吉継で後の桂田長俊)を守護代に任じ、北近江の虎御前の陣に凱旋します。 

 

 

■浅井氏の滅亡

 浅井長政
 浅井長政

8月26日、朝倉氏を滅ぼし北近江の虎御前の陣に凱旋した信長は、一気に小谷城の攻撃を命じます。

 

27日夜、羽柴秀吉は小谷城西側の清水谷の急斜面を登り京極丸に攻め入ります。京極丸は、浅井長政が籠もる本丸と父・久政が籠もる小丸の間にあり、これを落とすことにより浅井父子の連携を断つ狙いがありました。この京極丸は、秀吉の攻撃により数時間で織田方に占拠されます。


28日、もはや抗しきれないと判断した長政の父・久政は鶴松太夫という舞を得意とする者に介錯を命じ切腹して果てます。享年48歳でした。鶴松太夫もその後を追い自刃します。久政の首は即座に秀吉の手により虎御前本陣の信長の元に届けられます。


29日、信長は京極丸に入り、本丸で抵抗を続ける長政に圧力をかけます。信長は、この際、長政の武将としての能力を惜しんだのか、それとも妹・市の婿であったからなのか理由は分かりませんが、秀吉や不破光治らを使者とし長政に降伏を進めたようで、大和国を与えるという条件まで提示しますが結局説得は失敗に終わります。


死を覚悟した長政は、妻であり信長の妹であるお市の方へ信長の下へ落ち延びるよう説得します。説得を聞き入れたお市の方は三人の娘、茶々、初、江を連れて小谷城から脱出します。さらに長政は、お家再興の望みを託し10歳になる嫡男・万福丸を密かに脱出させます。


9月1日、家族を脱出させ最低限の仕事をやり終えたと考えたのか、長政は本丸東側にある赤尾清綱の屋敷(赤尾曲輪)にて自刃して果てます。享年29歳。浅井家に代々仕えた重臣・清綱もこれに殉じます。ちなみに清綱の嫡男・清冬は、助命され浅井氏滅亡後は宮部継潤に仕えることになります。


お家再興の望みを託された、万福丸も数日後、越前に潜んでいたところを発見され関ヶ原で磔の刑にされてしまいます。これにより浅井氏は滅亡することになりました。しかし、後に長政の長女・茶々は秀吉に嫁ぎ秀頼を産み、三女・江は家康の三男・秀忠に嫁ぎ三代将軍家光を産むことになります。長政の孫たちは時代を動かす大きな人物になりました。


9月4日、依然、近江の鯰江城で抵抗している六角義治を柴田勝家に攻めさせこれを攻略し、近江を平定します。ちなみに義治は逃亡し、その後武田勝頼の元に身を寄せたようです。


9月6日、信長は、旧浅井領を秀吉に与え岐阜に帰国します。

長政はもともと信長と敵対するのを望んでいなかったと言われています。父・久政は考えが古く旧恩ある朝倉氏を敵に回すことを嫌い、その父に逆らうことが出来ず長政は渋々信長に敵対したようです。もし長政がもっと信念を貫けるような人物であれば、織田政権下で家康と同じような立場になっていたかもしれませんね。 

 

 

■杉谷善住坊の処刑

9月、杉谷善住坊が、鯰江香竹という者を頼って近江の高島に潜んでいたところを磯野員昌に捕らえられます。

 

この杉谷善住坊とは、元亀元(1570)年4月、金ヶ崎の危機を脱し無事京に戻った信長が、その後岐阜へ向かう途中、千草峠で狙撃された時の実行犯。その後、善住坊は逃亡し、行方はわからないままでしが、浅井氏が滅んだことにより、捜索の手が及んだと思われます。


10日、岐阜に連行された善住坊は、奉行の菅谷長頼と祝(はふり)重正により狙撃事件の尋問を受けます。そして、善住坊は穴に頭部を出した状態で埋められ、鋸引きの刑に処せられます。ちなみに処刑の際に使用されたノコギリは竹製で処刑執行地の前に集まった野次馬や通行人たちにのこぎりを少しずつひかしていったとも伝わります。信長の恨みの深さを思わせる処刑方法でした。 信長は、長年の鬱憤を晴らし満足したそうです。

 

 

■伊勢長島一向一揆攻め、二度目の大敗

9月24日、浅井・朝倉を滅ぼし岐阜に帰国していた信長は休むまもなく、一気に伊勢長島の一向一揆を討伐するべく出陣します。

この作戦には、当初伊勢の水軍を動員するつもりで、信長は次男で北畠氏の養子になっていた北畠具豊(後の信雄)に命じて船を伊勢の大湊に集めさせようとしていました。しかし、大湊の会合衆はこれに従わなかったため作戦を変更します。


25日、伊勢に入った信長は、大田(太田:海津郡南濃町)の小稲葉山に陣を構えます。


26日、近江の佐久間信盛・羽柴秀吉・蜂屋頼隆・丹羽長秀も桑名に出陣し、西別所の一揆勢を打ち破ります。


10月6日、柴田勝家と滝川一益も坂井・深谷部の両城を立て続けに攻略します。


8日、信長は軍を進め東別所に陣を構えます。織田の主力に恐れをなした北伊勢の多くの地侍が降伏し、信長に人質を差し出します。そんな中、中島将監が降伏せずに抵抗します。信長は佐久間・羽柴・蜂屋・丹羽に中島将監の立て籠もる白山城を攻撃させこれを降伏させます。


これにより北伊勢はほぼ平定されました。いよいよ一向一揆の本拠・長島城をたたく時が来ました。しかし、ここに至って依然、大湊の会合衆は信長に協力する姿勢を見せなかった為、長島攻めを断念します。


25日、長島城の川を挟んだ西側にある矢田城に滝川一益を入城させると信長は帰国の途に着きます。しかし、この時信長は大きな判断ミスを犯します。二年前、柴田勝家が大敗を喫し、氏家卜全が討ち死にしたコースを通って岐阜へ向かってしまいます。


一向一揆勢はこの機を逃さず、織田軍の退路を先回りし要所を押さえると、弓や鉄砲を次々撃ちかけます。やがて雨が降り出したため、織田軍は鉄砲で反撃することも出来なくなり、大敗を喫し岐阜に帰国します。尚、この一揆勢には伊賀や甲賀の弓の名手も参戦していたそうです。


この退却時に殿軍を勤めた林新次郎父子とその配下の者はよく敵を食止め信長を無事岐阜に帰国させますが、討ち死にして果てます。さらに退却時、足軽の中には寒さのために凍え死ぬものが出るなど、織田軍にとっては悲惨な状況になりました。


10月26日、無事岐阜に到着した信長ですが、この大敗でさらに長島一向一揆に対する恨みは深まります。

 

 

■三好義継の切腹と本願寺との和睦

11月4日、信長は上洛し、二条の妙覚寺に入ります。堺で予定されている足利義昭との和睦交渉の行方を見守るとともに三好義継に不穏な動きがあったためのようです。

 

5日、堺では織田方から羽柴秀吉・朝山日乗、毛利方からは安国寺恵瓊、そして三好義継の下に身を寄せていた足利義昭を交え、信長と義昭の和解交渉が行われますが、交渉は決裂します。


9日、義昭は安芸・毛利家の庇護を求めますが断られ、紀伊へ向かいます。


11月中旬、信長は義昭が堺を退去したのを機に佐久間信盛を大将に任じ、河内・若江城の攻撃を命じます。この時、すでに三好家中に織田方の調略の手が及んでいたようで、義継は信長へ抵抗する意思を示しますが、家老の多羅尾綱知・池田教正・野間佐吉はこれに同調しませんでした。唯一、従ったのが金山信貞でしたが、多羅尾ら三家老により切腹に追い込まれます。三家老は、さらに佐久間信盛の軍勢を城内に引き入れます。


城内になだれ込んだ佐久間勢は一気に天守の下まで攻め寄せます。この状況に死を覚悟した義継は一族を殺害し、自らは天守から討って出ます。義継は、多くの佐久間勢に手傷を負わせますが多勢に無勢。最後は腹を十文字に切り果てます。25歳という若さでした。


この義継の死により動揺したのが本願寺の顕如でした。信玄が死去し、浅井・朝倉両家の滅亡。そして将軍義昭の追放。信長包囲網を形成していた反信長勢力が次々と衰退。次の標的は本願寺であることは目に見えていました。


11月18日、この日付で信長は本願寺に宛て書状を送っており、両者の和睦が確認されています。この和睦に際し、顕如は名物茶器「白天目」を信長に献上しています。伊勢長島一向一揆攻めに失敗し、対本願寺戦略を練り直す必要のあった信長と身の危険を感じた顕如の思惑が一致し、この和睦は成立したのかもしれません。

 

23日、信長は早速、妙覚寺にて今井宗久らを招き茶会を催し、この「白天目」をお披露目しています。

12月2日、信長は畿内での諸問題が片付いたのを見届け岐阜に帰国します。しかし、佐久間信盛は、さらに軍を進め松永久秀の籠る多聞山城(奈良県)を包囲。この時、信盛は信長の命を受けていたのか、久秀に降伏を勧めます。


26日、久秀は織田方の要求を呑み、多聞山城を明け渡し降伏します。
信長はなぜか久秀に対しては寛大な対応を度々とります。これには、松永久秀の持つ茶器などのコレクション目当てという考えもあるようですが、それならば久秀を殺して全部召し上げることも可能ですし謎が多いです。信長は、久秀の教養や武将としての能力を高く評価していたのかしれませんが、もしかしたら久秀に、亡き父・信秀や義父・道三の姿を見ていたのかもしれません・・・とはちょっとドラマの見すぎでしょうかね? 

 

この年、信長の八男・酌(のちの信吉)や九鬼嘉隆の次男・守隆、竹仲半兵衛の嫡男・重門らが誕生。

そして、9月、徳川家康は長篠城を攻略しています。