【信長史】1578① 別所氏の謀反と謙信の死

■年始の茶会

天正6(1578)年、信長45歳。

正月1日、安土の信長の下へ五畿内および近隣諸国の諸将が新年の挨拶のため出仕して来ます。

この日の朝、信長のもとへ出仕する前に茶の湯が催されます。
この名誉ある茶会に招かれたのは、織田信忠・武井爾伝・林秀貞・滝川一益・細川藤孝・明智光秀・荒木村重・長谷川与次・羽柴秀吉・丹羽長秀・市橋長利・長谷川宗仁の12名のみ。茶頭は松井友閑がつとめました。

 

重臣筆頭格の柴田勝家が招かれていないようですが、これは越前・北の庄にいたため雪により安土に来ることができなかったのかもしれません。

 

信長を含めた14人がわずか六畳の部屋(四尺:1.2mの縁側は付いていましたが)に集い茶会を催したそうです。ちなみにこの茶会では、床には「岸の絵」が掛けられ、「松島」「三日月」などの茶道具が飾られていたそうです。

この頃には安土城天守閣の障壁画も完成していたようで、諸将は信長への挨拶を終えると殿中を巡り、狩野永徳が描いた三国の名所を描いた絵や信長が収集した名物の数々を見て感嘆するのみだったそうです。

この後、一行は雑煮と舶来の菓子(コンペイトウ?)を賜り、退出したようです。

4日、今度は信忠が前年暮れに信長から譲り受けた茶道具を披露する茶会が信長の小姓筆頭格の万見仙千代重元の屋敷で催されます。
この日招かれたのは松井友閑・武井爾伝・林秀貞・滝川一益・長谷川与次・羽柴秀吉・丹羽長秀・市橋長利・長谷川宗仁だったそうです。

ちなみに前年暮れに信長が信忠に譲った茶道具は、「初花」の茶入れや「松花」の茶壷・「竹の子」の花入れ・曲直瀬道三旧蔵の茶碗・武野紹鷗旧蔵のひょうたんの炭入れなど計11点にも及ぶ名物でした。

 

 

■安土城下の火災

1月29日、安土城下で火災が発生します。出火したのは信長の弓衆を勤める福田与一宅でした。この福田は、尾張に妻子を残し、自分だけが安土城下に転居しており、いわゆる“単身赴任”で、出火当時、家には誰もいない状況でした。

これを知った信長は、妻子がいればこのような不始末は起きなかったと考え、すぐさま菅屋長頼に命じ、家臣たちが妻子と同居しているか調べさせます。調べてみると弓衆や馬廻り衆の中に計120名も“単身赴任”の者がいることがわかりました。

信長はこの者たちを叱責すると不祥事再発防止のため岐阜の織田信忠に命じて、尾張に住んでいる妻子の住居を焼き払わせました。これにより行き場を失った妻子らは否応なく安土の夫の元へ移り住むことになりました。

信長はこれに加え、120名の家臣に速やかに安土城下に一家揃って転居していなかった罰として城下の南方の入り江に沿って道(下街道?)を作る工事をさせ、この完成を持って今回の罪を許すこととしました。

 


■織田信澄の近江・高島郡拝領

2月3日、旧浅井氏の家臣で織田家に降っていた磯野員昌が信長の意向に背いたため怒りを買います。命の危機を感じた員昌は出奔してしまいます。

9日、吉野山中に潜んでいるところを同地の者に発見されます。員昌は磯貝久次に捕らえられ首をはねられ、その首は安土の信長の元へ届けられました。磯貝には褒美として黄金が与えられました。

磯野員昌の出奔により領主不在となっていた近江・高島郡は織田(津田)信澄が引き継ぐことになります。この織田信澄は、信長の弟で家督相続を争った信勝(信行)の実子で、父・信勝の死後は柴田勝家に預けられ養育されていました。

弘治元(1555)年の生まれというからこの時23歳になっていましたが、この頃には出奔し殺害された磯野員昌の養子になっていました。ゆえに磯野姓を名乗っていたと思われます。

この関係を考えると伊勢の北畠氏や神戸氏を乗っ取ったときと同様に磯野氏の養子になり磯野家を乗っ取ったのでは?と思えるような事件でした。

信澄はこの後、いつ頃かはわかりませんが津田姓(織田支族)を名乗り、明智光秀の娘を娶ることになります。織田姓を称していたかははっきりしません。

勇猛な性格だったようで信長にもその才覚を見込まれ重要視されていましたが、その血筋と光秀の娘婿であったことから後に非業の最期を遂げることになります。

 


■別所長治の謀反

 別所長治
 別所長治

2月23日、播磨を完全に平定するため出陣した羽柴秀吉は別所長治の与力・嘉古川(加古川:兵庫県加古川市)の賀須屋武則の城に軍勢を配備します。自らは書写山(姫路市)に本陣を据え、攻撃の時を伺っていました。ちなみにこの秀吉軍には、摂津の荒木村重も加わっていました。

そんな秀吉の下に驚愕の知らせが届きます。東播磨随一の国人である別所長治が叛旗を翻し毛利方に寝返り、居城の三木城に籠城との知らせでした。
播磨平定を目前にした秀吉は、西に大国毛利氏、東に別所氏と挟み撃ちにあう状況になりたちまち危機に陥ることになりました。

この別所氏の離反は、23歳の若き当主・長治の意向ではなく、実権を握っていた叔父・三木賀相(吉親)の薦めによるものだったようです。

3月29日、戦略の変更を余儀なくされた秀吉は、まず三木城を囲みます。城兵はおよそ4・5千。しかし、周辺の支城(淡河・神吉・志方・高砂・野口など)の多くが別所氏と行動を共にしており三木城を一気に攻め落とすのは不可能な情勢でした。

4月3日、そこで秀吉は支城のひとつである野口城を攻め落とします。
しかし、この数日後、最も恐れていた事態が生じます。毛利の大軍が遂に動き出します。


4月中旬、播磨に入った毛利軍は、織田方の尼子勝久・山中鹿介らが守る上月城を包囲し、秀吉軍を牽制します。
秀吉軍は野口城を攻め落とし、息つく間もなく上月城救援に駆けつけなくてはなりませんでした。秀吉は上月城の東・高倉山に布陣し毛利軍と対峙します。

このにらみ合いはこの後、二ヶ月に及びますが、秀吉軍の危機を知った信長は、この間、播磨救援のため軍備を整え、織田信忠を大将とした大軍勢が出陣することになります。

 


■上杉謙信の死と御館の乱

 上杉謙信
 上杉謙信

3月、東播磨の別所氏が叛旗を翻し、窮地に陥った信長に武田信玄が死去した時のような“幸運”が訪れます。

3月9日、関東・法城攻めを目前に控えた上杉謙信が厠で倒れ、こん睡状態に陥ります。
 

 

13日、謙信は意識不明のまま逝去。享年49歳。死因は脳溢血の可能性が高いようですが、異説として織田方による暗殺とも言われています。また、出陣の目的が上洛・信長との決戦とも言われています。ただ近年の研究では関東への出陣説が有力とされているようです。

謙信は、家督を誰に譲るか決めないまま急死してしまったことにより、『御館の乱』と呼ばれる家督相続争いを引き起こすことになります。

生涯独身であった謙信に実子はなく、三人の養子を迎えていました。一人は長尾政景と実姉の間に生まれた上杉景勝。もう一人が、北条家から人質として取っていた氏康の七男で景勝の実妹と結婚していた上杉景虎そして、能登畠山氏の当主・畠山義続から人質としてとっていた政繁。この政繁も景勝の妹を娶っていましたが、すでに上条上杉氏を継ぎ、上条政繁と名乗っていました。このため謙信の後継者争いには加わらず、景勝派として活躍することになります。

御館の乱』は、上杉家を二分し、さらに当初は景虎派として出陣しながら和議を結び景勝を支援することになる武田勝頼や、景虎を支援する景虎の実兄・北条氏政を巻き込み一年に渡り争われることになります。


乱は景虎の自害により上杉景勝が家督を継ぐことで決着します。しかし景勝は、領国平定にさらに二年の歳月を費やすことになります。

謙信の死は、信長の越中侵攻計画を容易にさせ、さらに播磨で苦戦を強いられている羽柴秀吉へ援軍を送るゆとりを与えるなど、信長の天下統一に大きな影響を与えることになりました。