1574(天正2)年の頃には、足利義昭から信長追討の御内書が上杉謙信のもとへも届いていました。
織田家と上杉家の同盟が結ばれたのは約2年前。武田信玄の動きをけん制するために結ばれた同盟でしたが、信玄の死や将軍・義昭の追放など天下の情勢は大きく変化し、織田家と上杉家の関係も徐々に変わり始めていました。
義昭の動きを察してか、信長も謙信との同盟を維持するため『洛中洛外図屏風』や『南蛮のビロードのマント』を贈るなどしていました。謙信も本願寺や武田と対立状態にあったので両者の思惑は一致しており、この時点で同盟が破棄されることはありませんでした。
1574(天正2)年6月には対武田に関する覚書(上杉文書)も交わし、今後どのように対応するか協議していたようです。
しかし、義に厚いといわれる上杉謙信。将軍義昭を京から追放した信長のことを少なからず許すことができないという気持ちも当然あったものと推測されます。
そんな謙信の性格を知ってか義昭は度々謙信に信長打倒の協力を要請していたようです。が、謙信としては武田・本願寺と戦う理由はあっても、信長と戦う理由はありませんでした。結局、この同盟関係は天正4(1576)年に謙信が本願寺と和睦するまで維持されることになります。
天下統一のため北陸方面にも版図を広げる信長と北陸の雄・謙信が戦うのは必然的な結果でした。
7月13日、信長は伊勢長島の一向一揆衆と決着をつけるべく、大軍勢を率いて、伊勢長島に三度目の出陣をします。
この時率いた軍勢は3万といわれており、大坂や越前方面の本願寺門徒衆や東の武田勝頼へ備えるために兵を配置していた状況を考えると、動員できる兵は全てつぎ込んだと思われます。過去二度大敗を喫し、さらには一族・家臣を数多く討たれ、この時の信長の決意は並々ならぬものだったようです。
織田軍は過去の大敗を教訓に四方から攻めかかる作戦を取ります。信長率いる本隊は、中央筋・早尾(愛知県・佐織町)方面から攻撃を仕掛けます。本隊には秀吉の弟・羽柴秀長や丹羽長秀・前田利家・佐々成政・河尻秀隆・浅井政澄・織田信広(信長の兄)ら、母衣衆や馬廻衆を中心とした家臣が加わっていました。
東の市江方面(愛知県・佐屋町)からは嫡子・信忠が率いる軍が攻めかかります。この隊には、織田信包や秀成・長利・津田信次・津田信成ら一族衆や森長可・池田恒興・梁田広正らが加わります。
西の賀鳥方面(かとり:愛知県・弥富町)からは佐久間信盛や柴田勝家・稲葉一鉄・蜂屋頼隆ら尾張・美濃衆中心の軍が攻めかかります。
15日、南方の桑名方面の攻撃に、海上から志摩の九鬼嘉隆率いる九鬼水軍と滝川一益率いる伊勢水軍が参陣。この両水軍は同じく水軍を編成して大船で参陣した信長の次男・北畠信雄と三男・神戸信孝の配下に加えられ長島に攻め入ります。船の数は安宅船を中心に数百隻だったそうです。
伊勢各地で織田軍の猛攻を受けた一向一揆勢は次々と近場の砦に逃げ込みます。大鳥居と篠橋の砦に逃げ込んだ一揆勢は信長に許しを乞いますが、許されませんでした。
8月2日夜、大雨を突いて大鳥居に籠城していた一揆勢が脱出を試みますが、織田軍に発見され1000人近い男女が斬り殺されます。
12日、今度は篠橋で籠城していた一揆勢が「長島の本坊に入り込んで織田方のために働く」という策を提案し信長に許しを乞います。このような話を信じるはずがない信長でしたが、この策を受け入れ(たふりをして)長島へ退去することを許します。これにより長島には2万以上の一向一揆衆が集結することになります。
7月中旬、織田軍の猛攻により、籠城を余儀なくされた2万余の一向一揆衆ですが、籠城戦は想定していなかったため何も備えができないまま、長島・屋長島・中江の三ヶ所に籠城することになります。織田軍はその周りに幾重もの柵をめぐらし完全に包囲します。
7月29日付けの書状で、石山本願寺に備えて、京都・鳥羽に陣を構えていた明智光秀に、信長は「(石山)本願寺側が淀川を越えてきたら応戦せよ」と命じています。
他方、越前の一向一揆に備えていた羽柴秀吉ですが、配下に属していた樋口直房が妻子を引き連れ、木目峠(木ノ芽峠)の砦を抜け出し逃亡するという事件が起きます。しかし、秀吉はすぐに樋口夫妻を捕まえ討ち取り、二人の首を長島の信長本陣に届けさせます。
9月29日、包囲から二カ月余り、長島の一向一揆衆は餓死者が続出し降伏を申し出ます。これを信長は許したと見せかけ、一揆衆が多数の船に乗り退去するところを隠れていた鉄砲隊が狙撃し、さらに切り殺すなどします。この攻撃に対し700~800人の一揆衆は半裸の状態で刀のみをもち川に飛び込み死に物狂いで猛反撃してきます。このため信長の兄・信広や弟・秀成、叔父の織田(津田)信次を含む多くの一族や家臣が討ち死にします。
この乱戦で脱出に成功した門徒は大坂の石山本願寺を目指して逃走します。しかし、屋長島・中江の砦に残された老若男女2万人には過酷な運命が待っていました。信長の命により、四方から火を放たれ焼き殺されます。
これは、信長の一向一揆への怨みも大きかったかもしれませんが、背後の石山本願寺の法主・顕如や他の門徒、そして敵対する勢力全てへの見せしめだったように思います。
信長は、この焼き討ちが終わるとその日のうちに岐阜へ帰国します。
その後、北伊勢は滝川一益に与えられます。一益は、この長島攻めの一年も前から秀吉の弟・羽柴秀長と共に、石山本願寺から長島に物資が搬入されるのを遮断していたそうで、さらにこの度の活躍もあり、北伊勢という要所を与えられたものと思われます。
この年、信長の九男?信貞とのちに前田利長に嫁ぐ永姫、さらに丹羽長重にとつぐ娘(のち報恩院)が誕生。
そして、7月、上杉謙信が越中を平定し加賀に侵攻しています。