【信長史】1573① 信玄の死と将軍義昭追放

■武田信玄の死と将軍義昭の挙兵

 武田信玄
 武田信玄

元亀4(天正への改元は7月:1573)年、信長40歳

1月、三方ヶ原合戦の勝利で、一気に遠江を制圧し三河に侵攻すると思われた武田軍の動きが鈍ります。この頃信玄の病状が悪化したのかもしれません。信玄は、三方ヶ原の北方の刑部(おさかべ)にとどまり采配を振るいます。

 

1月11日、武田軍は東三河の野田城攻めを開始。


2月10日、徳川方の城主・菅沼定盈は降伏。野田城は陥落します。
信玄の病状を知らない将軍・足利義昭は、野田城陥落の前後、信玄の快進撃で“信長ももはやここまで”と思ったのかついに挙兵。近江の石山・今堅田に陣を張り公然と信長に敵対します。


17日、信玄は刑部から野田城近くの長篠城に移ります。長篠城は元亀2年の段階で城主・菅沼正貞が武田方に寝返っていました。さらに信玄は、その近くの鳳来寺へ移ります。そして、この地の湯治場で一ヶ月に及ぶ療養をします。


三方ヶ原の大勝利後、突如動きの鈍った武田軍の異変に信長は即座に反応します。もしかしたら何かしら情報を入手したのかもしれません。


20日、柴田勝家らが出陣。

 

24日、近江の石山に攻め入り、山岡光浄院を降伏させこの地を占拠します。


29日には、明智光秀や丹羽長秀らが近江・今堅田に攻め入りこの地を占拠し、織田軍は江南をほぼ平定します。義昭は、信玄の体調の異変をしらぬまま京に退却したものと思われます。

 

朝倉義景は三方ヶ原の合戦直前に、越前に帰国していたため、浅井長政単独で織田軍に対抗することはできず江南に援軍を出せなかったと考えられます。朝倉氏の帰国は例によって積雪により越前への帰路を遮断されるのを恐れたためかもしれません。信玄の再三の出陣要請にも義景は、動くことはなく打倒・信長の最大の好機を逃しています。


こうしている間に信玄の病状は悪化していきます。東美濃に攻め入った武田方の秋山虎繁(信友)の別働隊も長期にわたり岩村城に留まったままでした。本隊と同時に尾張・美濃方面に攻め入る作戦だったのかもしれません。


3月中旬、信玄本隊が動き始めます。進路は西ではなく武田氏の領国・信濃方面。甲斐の躑躅ヶ崎館へ帰国の途につきます。

3月25日、信長はかなり正確な情報をつかんでいたのか、信玄が反転・帰国の途に着いた直後、1万もの軍勢を率い上洛の途に着きます。
義昭は、信玄が重病で帰国の途についたとは思わず、再び織田領に攻め込んでくれると信じていたようです。


4月12日、帰国の途上、信玄は信濃にて死去します。享年53歳でした。
信玄は病により死去したとされますが、実は死因も死去した場所もはっきりしていません。一説には、野田城攻めの際、城兵の村松芳林の笛の音につられ信玄が陣を出たところ城兵の鳥居三左衛門に鉄砲で撃たれ、この傷がもとで死んだという話もあります。


江戸時代に記された『菅沼家譜』には、「夜陰にまぎれ鉄砲により武田軍を攻撃したところ武田陣中が騒がしくなった」との記述があり、信玄に命中したとの記述はないもののこの一節が後世、信玄が鉄砲に撃たれ死んだとの説を生むことになったようです。(ウィキペディア参照)

 

 

■将軍義昭との和睦

3月25日、信長は1万の軍勢を率いて京へ向かっていましたが、目的は将軍・義昭との和睦でした。

 

29日、義昭の家臣・細川藤孝と摂津の荒木村重が信長を出迎えるため、逢坂(おうさか:滋賀県大津市)までやってきます。義昭の使者としてではなく、義昭を見限り信長に仕えるためでした。信長は、大いに喜び二人に褒美の刀や脇差を与えます。そして、現在織田家は危機を迎えているが、いざというときは上杉謙信が信玄の背後を突く手はずになっているので安心するよう付け加えます。事前に細川藤孝に手紙を出していたという話もあります。

 

その日の午後、信長は入京し、義昭との和睦を成立させるため動き出します。
実は、信長は信玄の野田城攻略の前後と思われる時期に一度、義昭との和睦を試みていました。人質を差し出すとまで言った信長の和睦の申し入れを義昭は蹴っていました。


4月1日、信長は京都・知恩院に陣を構え、二条の義昭御所(旧二条城)を取り囲み、義昭との和睦交渉を進めます。この時信長は義昭に和睦を受け入れる気があるならば、自分は頭を剃ってでも会見場に赴くとまで言い、ひたすら下手に出ます。これは、信長が本気で和睦をしたいと願っていたわけではなく、自分は和睦したいと思っているのに将軍が拒み、天下が乱れているということを強調するためのパフォーマンスであったように思います。この時点では依然、信玄は健在だったので和睦が成立すればそれに越したことはありませんが・・・
その証拠というわけではありませんが、知恩院に入った信長は吉田神社の祠官・吉田兼和(後の兼見)を呼び寄せ、朝廷や公家たちが将軍のことをどのように思っているかたずね、評判が良くないと知ると満足したそうです。これには朝廷を味方につけ、将軍義昭と対決しようという考えがあったものと思われます。


さて、一方の義昭ですが、ひたすら低姿勢な信長をみて本当に信長が苦しみ困っていると思い込み、さらにこの時点ではまだ死んでいなかった信玄が織田攻めに動き出すと信じ、信長の和睦の申し入れを再び拒否します。


3日、ついにここで信長は脅迫的行動に出ます。京都郊外に軍勢をすすめ各地で焼き討ちを行います。そして、和睦を迫りますが、それでも義昭は拒否。


4日未明、信長は本陣を等持院に移し、かねてから信長に反抗的だった二条の義昭御所がある上京を焼き討ちします。しかし、なおも強気の義昭に対し、信長は朝廷に頼ることを決意。正親町天皇を動かし、関白二条晴良が使者となり義昭を説得。


7日、勅命によりようやく信長と義昭の和睦が成立します。


8日、和睦が成立すると信長は義昭と会見することもなく、すぐに岐阜に向け出発します。途中、六角義賢が籠もる鯰江城(滋賀県愛知郡)を攻撃、さらに度々六角氏や一向一揆に加担してきた百済寺を焼き払います。

 

4月12日、既にふれたように、この日武田信玄は逝去。この報に接した義昭は当初、織田方のデマと思い信じなかったようです。

 

 

■将軍義昭の追放

5月、信長は近江・佐和山城に入り、丹羽長秀に琵琶湖に大船を建造するよう命じます。領国各地から大工や鍛冶屋・製材業者を集め、のちに安土城の築城をまかされることになる大工の岡部又右衛門を棟梁に任命します。

 

7月上旬、100挺の櫓を備えていたといわれる大船は完成します。信長は、将軍・足利義昭と和睦はなったものの近いうちに再び挙兵するであろうと考え、琵琶湖より一気に大軍を運ぶための巨大な船でした。


5日、船の完成とほぼ時を同じくして信長の予想が的中します。義昭が再び挙兵します。二条御所に日野・高倉・伊勢・三淵藤英(細川藤孝の実兄)らを留守居としておき、義昭自身は、約3700の兵を率い、真木島昭光の居城・槇島城の近くに陣を構えます。


6日、信長は早速、大船にて琵琶湖を渡り、坂本へ到着。


7日、京・妙覚寺に陣を構えます。予想外の速さで上洛した織田の大軍に二条御所に立てこもっていた藤英ら朝廷に願い出て再び信長と講和することを画策しますが、すでに織田軍に包囲されており使者を派遣することが出来ず降伏。


16日、信長は義昭が陣を構える槇島の攻略を命じます。槇島に向かうには宇治川の大河を渡らなくてはならず、諸将が戸惑う中、信長は「延引するなら、この信長が先陣を務める!」といったそうで、そのように言われてしまっては諸将も引き下がることもできず、渡河を強行します。


18日、信長は一説に7万ともいわれる軍を二手に分け一気に大河を渡らせます。川上からは梶原景季と佐々木高綱が先陣を争い渡り、その後を稲葉一鉄や安藤守就・氏家直通・不破光治ら美濃衆が進軍。
川下からは、佐久間信盛や柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・明智光秀・細川藤孝・忠興父子、蒲生賢秀・氏郷父子など織田家の重臣のほとんどが加わる主力部隊が進軍。


二手に分かれた織田軍は、槇島に迫ります。圧倒的兵力差に動揺した義昭は早々に陣を引き払い槇島城に立て籠もります。そして、ここで最後の抵抗を見せ、一戦に及びますが、多勢に無勢。降伏せざるを得ませんでした。


信長は義昭を殺すこともできましたが、将軍殺しの汚名を受け世間の批判を浴びることを嫌い、数え2歳の義昭の嫡子(のちの義尋)を人質として出させることで命だけは助けることにします。義昭は一族や近臣の者、わずか50人余りを引き連れ山城・枇杷庄に落ち延びていきますが、この際、落ち武者狩りに遭遇しほとんどの財産を奪われてしまいます。その後、本願寺顕如の仲介もあり、義昭は反信長として手を組んでいた妹婿の三好義継の居城、河内の若江城に身を寄せることを決意。


21日、義昭は信長に道中の警護の兵を依頼。信長はこれを聞き入れ羽柴秀吉を警護役につけ、義昭を河内の若江城に送り届けます。


同日、信長は宇治から京に凱旋。村井貞勝を京都所司代に任命します。


ここに足利尊氏が1338(延元3年/暦応元)年に開いた室町幕府は終焉を迎えます。230年以上武家の頂点に立っていた足利氏の最後でした。・・・・と、これは、現代から見た歴史。当時、義昭は将軍職を奪われたわけでも辞したわけでもありませんでした。故に将軍・足利義昭は健在。


7月24日、義昭は早速、安芸の毛利輝元らに御内書を送り京への復帰を画策。
後に義昭は、中国地方の覇者・毛利輝元に庇護され、鞆(とも)という所を与えられます。この地で、後に“鞆幕府”ともいわれる“幕政”を展開。輝元を副将軍に任命するなどして打倒・信長に執念を燃やすことになります。