元亀3(1572)年、信長39歳。
1月、信長の息子、長男・奇妙丸(16歳)、次男・茶筅丸(15歳:北畠氏)、三男・三七郎(15歳:神戸氏)の三兄弟が岐阜城で元服します。奇妙は、はじめ信重と名乗りのち信忠、茶筅は、具豊・信意・信勝そして信雄となったようです。三七は信孝と名乗ります。
そして、実はこの三兄弟の上にも男子がいたとの説もあります。要するに本当の長男ということになります。名前は信正。生まれたのは、1554年(~1647年)。1558年誕生説もあり、そうだとすると長男ではないですが、母は原田直政の妹。この信正は後に信長の兄・信広の娘と結婚して、信広の家系を継いだとも考えられています。ちなみに信衡・的寿という子ももうけています。信正のお墓が京都の見性寺にあるそうです。話が結構具体的なので、実在した可能性は高いように感じます。信正は正室の子ではなかったので嫡子になれなかったのかもしれませんね。信忠も正室の子ではありませんが・・・
なお、三男の信孝ですが、『勢州軍記』によると前年の元亀2年、養父・神戸具盛が信孝をないがしろにしたという理由で、強制的に隠居させられ、信孝は元服前に神戸家を継いでおり、この際、反発した神戸家譜代の臣の多くが粛清されています。代りに織田家から多くの家臣が信孝の家臣に組み込まれました。
さて、祝い事で幕を開けた元亀3年ですが、この裏で事態は悪い方向へ進んでいました。
同月、またもや六角氏が江南にて蜂起。金森・三宅に立てこもりますが、柴田勝家・佐久間信盛によって撃退されます。信長は度々六角氏の蜂起に加担するこの地域の村々に、今後、六角氏には味方しないという起請文(元亀の起請文)を提出させなくてはならない状況でした。
1月、本願寺の顕如は再び武田信玄へ太刀を贈り信長の動きを背後から牽制するよう依頼します。信玄は前年の比叡山延暦寺焼き討ちの件で信長への不快感をあらわにした書状を将軍義昭へ送っていますが、この時点ではまだ信長と完全に敵対していたわけではありませんでした。
そんな状況を知ってか、反信長同盟が完成する前に信長は先手を打ちます。
3月6日、信長は京へ向かうに当たり、まず近江の横山に着陣します。
7日、浅井長政の居城・小谷城近くの与語・木本を焼き払いを長政を挑発。浅井軍に動きがないことを確認した信長は京へ向かいます。
3月12日、信長は京へ入ると本願寺や三好三人衆との和睦を成立させます。おそらくこの和睦は信長の方から持ちかけたものと思われます。和睦が成立すると三好三人衆を代表して細川昭元と石成(岩成)友通が信長のもとへ挨拶に来ます。そして本願寺の顕如も和睦の礼として「万里江山」という絵画と「白天目茶碗」を信長に献上しました。
この和睦は信長にとっては当面の危機を回避するためと浅井・朝倉に戦力を集中するためにも重要であり、一方の本願寺や三好勢にとっては“反信長陣営”に信玄を引き込むための時間稼ぎが出来るため、互いに意味のあるものでした。
4月、信長に従っていた松永久秀・久通父子と三好義継が織田方に属する河内の畠山昭高に攻撃を仕掛けてきます。信長は、すぐに柴田勝家・佐久間信盛・森長可らに松永・三好の討伐を命じます。信長はこの討伐軍に将軍・義昭の軍勢も加え、表向き室町幕府のためという形をとります。織田軍が出陣してくると久秀らはさっさと籠城してしまいます。久秀は信貴山城、息子・久通は多聞城、三好義継は若江城に籠城します。
久秀らは、この時期密かに本願寺や三好三人衆と連絡を取り合い協力を約束していたようで、さらに久秀は前年5月から信玄とも連絡を取り合っていました。5月といえば信長が伊勢長島で一向一揆に大敗を喫した時期であり、この大敗を機に“信長もはやこれまで”と考えたのかもしれません。
そんな密約もあったため、籠城して時間稼ぎをしていれば再び本願寺や三好三人衆、そして信玄が動くはずという計算が久秀らにはあったのかもしれません。しかし期待した信玄や本願寺・三好三人衆は動く気配がなく、この籠城は長期間に及ぶことになります。
5月19日、信長は、久秀や義継らが籠もる城を包囲させると自らは岐阜に帰国してしまいます。
7月19日、信忠(当時、信重だと思いますが以後、信忠で統一)の具足初めの儀が執り行われます。初陣にあたり初めて鎧を身にまといました。信忠の初陣の相手は浅井長政。信長は5万もの軍勢を率い北近江の小谷城へ向け出陣します。
この頃、武田信玄は将軍・足利義昭や本願寺顕如との連携を強め、対織田・徳川戦をにらみ、この年1月には上杉謙信の動きを封じるべく、謙信と同盟関係にあった北条と和睦していました。この情報は信長も当然つかんでいたものと思われ、信玄の出陣は現実味を帯びていました。そのため信長としては急ぎ浅井・朝倉と決着をつける必要がありました。
21日、柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀・木下藤吉郎(秀吉)らに命じ、雲雀山(ひばりやま)・虎御前(とらごぜやま)へ攻め上らせ町を焼き払います。
22日、浅井方の阿閉貞征が守る山本山城を秀吉が攻め、50余りを討ち取る活躍を見せます。
23~24日にかけても織田軍は越前との国境付近を中心に寺院や名所等を焼き払い一揆を企てた近隣の村民や僧を多数討ち取ります。
さらに琵琶湖方面では明智光秀が中心となり湖上から攻撃を仕掛け一揆衆の動きを封じました。
27日、信長は虎御前山に築城を命じます。そんな中、浅井長政は朝倉に援軍を要請。『信長公記』によるとこの時、長政は伊勢長島で一向一揆が蜂起して、信長は危機に陥っているという虚報を伝え、朝倉義景に出陣を促しています。
報告を受けた朝倉義景は自ら1万5000もの軍勢を率い出陣してきます。しかし、状況は長政の報告とはまったく異なり、義景は織田の大軍勢を目の前にし、大嶽(おおずく)という山に陣を張りそのまま動きを止めてしまいます。
両軍にらみ合いの中、虎御前山の築城はすすみ、さらにその裏では信長の朝倉方への調略が進んでいました。
8月、朝倉の家臣・前波長俊父子三人が織田方に寝返ります。喜んだ信長は父子に馬や帷子など褒美として与えます。その翌日には、さらに富田長繁や戸田与次・毛屋猪介らも織田方に寝返ります。虎御前築城を阻むことができず傍観するだけの義景を見限ったのかもしれません。
睨み合いが続く中、長期の在陣を避けたい信長は朝倉軍に対し決戦を持ちかけますが、義景はこれに応じません
9月16日、信長は秀吉軍を残し自らは横山城に引き上げ、岐阜へ帰国します。
この時信長は、重大な報告を受けていたと思われます。“武田信玄、動く”信玄が出陣の準備を始めているとの情報を知り急ぎ岐阜に帰国したのかもしれません。
9月、岐阜に帰国した信長は、武田信玄出陣間近の危機的状況の中、将軍足利義昭に対し、十七ヵ条にも及ぶ異見書を突きつけます。
表向き義昭との対立を避けていた信長も、信玄まで動き出したこの状況に我慢も限界に達しての最後通牒とも言うべき内容でした。
以下に『信長公記』に書かれている内容を要約したものを記します。
一.宮中への参内を怠らないように申し上げたのに近年怠っているのは遺憾である。
一.諸国へ御内書を出し馬などを献上するのは外聞がよくないので考え直すように。必要ならば私(信長)が添え状を書き取り計らうと約束したのに、約束を違え内密で行うのはよくない。
一.幕府へよく奉公し怠りなく忠節を尽くす者に相応の恩賞を与えず、新参者でそれほどの身分でない者をを厚遇するのはよくない。
一.将軍と信長の不和が噂される中、将軍家の重宝類をよそへ移されている状況が京内外に知れ渡り信長の苦労も無駄になり残念である。
一.賀茂神社の所領の一部を没収し岩成友通(信長と敵対する三好三人衆)に与え、内密で優遇処置をとったのは良くない。
一.信長に友好的なものには、女房衆以下にまで不当な扱いをするとはどういうことか。
一.何事もなく奉公し何の落ち度もない者達(観世・古田・上野)が扶持の加給がないため信長に泣きついてきたので将軍に取り次いだにもかかわらず、なにも聞き入れられず私は彼らに対し面目がない。
一.若狭の安賀庄の行跡について粟屋が訴訟を申し立てている件について私ももっともだと思い進言しているのにいまだ決裁されていない。
一.偶発的な喧嘩で死んだ小泉が遊女屋に預けていた刀や脇差など身の回りのものを没収したのは良くない。将軍の欲得と世間に思われる。
一.元亀の年号は不吉なので改元した方が良いと世間一般の意見に基づき申しあげ、宮中にまで催促されているのに改元のわずかな費用も献上せず引き伸ばしているのは良くない。
一.烏丸光康の懲戒の件は、息子・光宜へのお怒りは仕方がないが、光康は赦免するよう申し上げたのに、密かに光康から金銭を受け取り許す、このようなやり方は良くない。
一.諸国から献上されている金銀があるのは明白なのに宮中の御用にも当てず内密で蓄えているのは何のためか。
一.明智光秀が京の町で徴収した地子銭を預けていたのに、その土地は延暦寺領として、地子銭を差し押さえたのは不当である。
一.昨年夏、幕府に蓄えていた米を金銀に代えたそうですが、将軍が商売をするなど聞いたことがない。蔵に米を蓄えている状態が世間の聞こえもいいのに、驚いている。
一.寝所にお召し寄せになった若衆を良し悪しに関わらず厚遇するのは世間から悪しざまに批判されても仕方がない。
一.幕府に使える武将達が金銀を蓄える事に専念している。将軍がそのような行動をするから部下がさては京都を出奔するのかと推察しているためと思う。上に立つものは自らの行動を慎むべきではないか。
一.将軍が何事につけても欲深なので、世間では農民までが将軍を悪御所と呼んでいる。なぜこのように陰口を言われるか、今こそ良くお考えになったほうが良い。
以上、長々と引用しましたが、この異見書は武田信玄も目にしたといわれ、他にも興福寺大乗院の尋憲大僧正の日記にも記されているそうです。これは信長が将軍義昭との対立が噂される中、自分には非がないことを世間に広めるためにその写しを各地に配ったためといわれています。
この異見書を突きつけられた義昭は激怒したかもしれませんが、信玄の出陣が目前に迫った時期であり、「まあ良い、捨て置け」といった気持ちもあったかもしれませんね?
9月29日、武田信玄は重臣・山県昌景を先発隊として出陣させます。
10月3日、武田信玄自らが甲斐・躑躅ヶ崎館から出陣します。その数およそ2万5000。
信長は、武田信玄との断交を余儀なくされ、信玄の背後の上杉謙信との同盟を決め自分の子を養子に差し出す約束をします。(養子話は実現しませんでしたが・・・)すでに前年(元亀2年)の2月の段階で徳川家康は武田信玄と遠江の高天神城や三河の二連木城で戦い完敗していました。そのため謙信と友好関係を築くべく、太刀を贈るなどしていました。
この結果“信玄包囲網”の同盟が形成されましたが、信玄が一枚も二枚も上手で北条氏や本願寺の一向一揆を利用し謙信の動きを封じていたため、背後を気にすることなく出陣します。さらに信玄は、このときの出陣とは直接関係ありませんが、常陸の佐竹義重とも数年前に同盟を結んでいたので、万が一北条氏が裏切ったとしてもその背後を突くことができるという万全な体制での出陣でした。
10月上旬、武田軍は途中、信濃・伊那あたりで軍を二手に分けます。別働隊を指揮する秋山信友は美濃を目指します。信玄率いる本隊は南下し、遠江に攻め入り調略により寝返らせた天野景貫の犬居城に入ります。
11月3日、近江にて織田軍と対峙していた浅井・朝倉軍は、それまで積極的な動きを見せていませんでしたが、信玄からの報告を受け、突如軍勢を繰り出してきます。秀吉もこれに応戦。何とか撃退し、再び近江方面はこう着状態になります。
11月14日、美濃に侵攻した秋山信友率いる武田軍の別働隊が岩村城を陥落させます。この時、岐阜城に居たと思われる信長は、じっと戦況を見守ります。
12月19日、信玄本隊は遠江の二俣城を攻略。家康の居城・浜松城にあとわずかという距離に迫ります。
12月22日、武田信玄本隊が徳川家康の居城・浜松城目前に姿を現します。
信長は、この時、佐久間信盛・平手汎秀・水野信元に計3000の兵をあたえ家康の援軍として派遣していました。尾張・美濃の防衛、近江や京周辺の浅井・朝倉・本願寺・三好衆の(三人衆や三好義継・松永久秀)らの動きを警戒しなくてはいけない信長としては、3000の援軍を送るのが精一杯の状況だったのかもしれません。
しかし、この三人の合戦時の行動を見ると援軍というよりは目付け(監察)の役割だったように思われます。徳川軍と武田軍の戦ぶりを見るというよりは家康降伏し武田方に寝返るのを恐れたのかもしれません。
織田からの援軍がわずかに3000。徳川軍と合わせても1万1000程度の兵力で、精強を誇る武田軍2万5000に対抗するのは不可能。浜松城内では籠城主張派が大勢を占めたものと思われます。それを見透かすかのように信玄は、浜松城を無視するように三河方面へ進軍していきました。
一般的に知られているこの後の家康の行動は、信玄のこの行動に対し腹を立て、「戦わず領内を通過させては天下の笑い者になる!」と家臣の反対を押し切って出陣するというように勇ましく描かれていますが、実情はかなり違ったようです。
『当代記』という史料によると、当初、物見としてバラバラにでていった兵たちが礫(石)の投げ合いになり徳川方の兵が集まりだし、そこに武田軍が発砲するなどして規模が大きくなり、家康は軍を引き上げさせるべく出陣するも合戦に巻き込まれてしまったということです。
ただでさえ不利な状況なのに、思わぬ合戦に家康は采配を振るうこともできないまま、あっという間に徳川・織田連合軍は壊滅します。織田軍に関して言えば水野信元は戦わずに戦線離脱し岡崎城に兵を引き上げてしまいます。佐久間信盛も早々に退却。そんな中、平手汎秀だけが討ち死に。さすが平手のジイの息子!といいたいところですが、奮戦したわけではなく退却中に討ち取られてしまったようです。
徳川軍は奮戦したようですが、これは江戸期に書かれた軍記物の類が記すのみで、真相はよくわかりません。いずれにしても徳川・織田連合軍は完敗。家康は命からがら浜松城に引き返します。
浜松城では、城門を大きく開け放ちます。この状況を見た信玄は計略があると見て浜松城には攻め入らなかったそうです。
江戸期の軍記物は徳川軍の奮戦を強調するものが多いですが、敗走中の家康が恐怖のあまり馬上で“脱糞”したという話もあります。奮戦ならぬ“糞”戦ですね・・・
三方ヶ原の戦場周辺に伝わる伝承として、「よろい田」と呼ばれるものがあり家康が鎧を田に沈め隠し百姓になりすました話や「小豆餅」「銭取り」は逃走中に代金を払わず小豆餅を食べた家康が店の老婆に追われ銭を払ったことからその名がついたという話しもあります。他にも家康が隠れたといわれる楠の洞もあるそうです。※『週刊日本の合戦』より
家康はこの敗北を生涯忘れないようにするため、今回使用した肖像画を描かせたそうです。※「徳川家康三方ヶ原戦没像」(徳川美術館蔵)
この年、足利義昭の嫡男・義尋や宇喜多秀家らが誕生。
そして12月、細川藤孝が三条西実枝より古今伝授を受けます。