永禄9(1566)年、信長33歳。
信長は、稲葉山城を攻略するため、墨俣に築城することを家臣に命じます。一番手に佐久間信盛が任命されますが、斎藤勢の攻撃を受け失敗に終わります。次に柴田勝家が築城に挑みますが、同じく失敗。そこで今度は秀吉が挑戦します。秀吉は蜂須賀小六の協力を得て、短期間で墨俣に城を完成させます。
以上通説による、「墨俣一夜城」のお話でした。
この美濃攻めに際し、重要な出来事のはずの「墨俣一夜城」の話はなぜか『信長公記』にまったく出てきません。『信長の戦国軍事学』の著者・藤本先生の研究によると、江戸時代初期の小説家として有名な甫庵が書いた『太閤記』にも墨俣築城の話が出てこないそうです。
研究の結果、甫庵の書いた『甫庵信長記』や『太閤記』をもとに書かれた江戸期のいくつかの小説等を経ていく過程で明治期に現在の通説が完成したそうです。
藤本先生は結論として、現在発見されている資料で判断する限り、墨俣一夜城は実在しなかったという見解を示されています。
もうひとつ、もしこの話が真実とすれば、藤本先生の著書を引用すると
「(前略)信長は高みの見物をしながら、部下たちを順繰りに投入している。(中略)個別に撃破された佐久間や柴田は、秀吉の引き立て役を演じさせられただけではないか。軍事用語でいうところの“兵力の逐次投入”“各個撃破」の最悪の例で、まことに信長らしからぬ拙劣な用兵といわねばなるまい。」
なるほど、私も信長はそんなバカな作戦はたてないと思います。
ちなみに『信長公記』には、この年、永禄9(1566)年の記事としてわずかに、「永禄9年4月上旬、信長は木曽川の大河を渡り、美濃の加賀見野に軍勢を集結した。敵斎藤龍興は井口から軍勢を出撃させ、新加納の村に兵を配置して守備についた。両所の間は難所で、馬の足場も悪いので、信長はその日は帰陣した。」と触れるのみです。やっぱり墨俣一夜城は幻の城だったように思います。
ただ、墨俣(洲の俣)は戦国時代よりもはるか前から地理的に戦略上、重要な拠点だったようで、すでに砦のようなものはあったようで、織田軍も斎藤軍も砦を修築しては引き払いを繰り返していたかもしれません。
この年、真田昌幸の長男・真田信之が誕生。
9月8日、足利義秋(後の15代将軍・義昭)が越前(福井)の朝倉義景のもとへ身を寄せます。
12月29日には、松平家康は“姓を“徳川”に変え徳川家康と名を改めますます。