永禄8(1565)年、信長32歳。
5月、京で13代将軍足利義輝が暗殺されるという大事件が起きます。
義輝暗殺事件は、信長の歴史を語る上で重要な事件なので触れておきたいと思います。この事件がなければ、後に信長が足利義昭を奉じて上洛するという事もなくなり、信長の天下統一事業も大きく変わっていたであろうし、なんといっても明智光秀との出会いもなかったかもしれない。少なくとも違った形での出会いになっていたのは確実です。
義輝は天文15(1546)年、わずか11歳のとき父・義晴から将軍職を譲られました。この時期、義晴・義輝父子は、管領細川晴元対立し近江にいました。将軍に就任した義輝は天文19(1550)年、細川家で実権を握っていた三好長慶と和睦し京へ復帰。
永禄7(1564)年7月4日、対立を繰り返してきた三好長慶が死去。義輝はこれを機に一気に将軍の権威復活をもくろみますが、松永久秀や三好三人衆が実権を握り思うようになりません。義輝は、この久秀らの専横ぶりに耐えかね松永久秀らを討つ決意を固め、ひそかに計画を練り実行の時を待ちます。しかし、この動きは久秀らに察知されていました。
永禄8(1565)年5月19日、松永久秀や三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が、突如、二条御所を襲撃。
義輝は上泉信綱に教えを受け、塚原卜伝に奥義の伝授を受けた剣豪将軍で、襲撃を受けた時、抜き身の刀を何本も突き立て、攻め寄せてくる敵兵を次々討ち取ります。刀を次々取り替えながら奮戦するも、多勢に無勢。ついに力尽き討ち取られます。義輝は戦いの直前、死を覚悟したのか家臣と別れの盃を交わしていたそうです。
本能寺の変を思わせるこの義輝暗殺事件。義輝も志半ばで倒れ無念であったろうと思います。
9月、前年、織田方に寝返った、美濃・加治田城の佐藤紀伊守とその息子・右近右衛門父子が危機を迎えます。
裏切った佐藤父子を討つべく、斎藤龍興が軍勢を差し向けます。まず、斎藤家の重臣・長井道利が加治田城から二十五町(約2.7km)離れた堂洞という所に砦を築き、そこに岸勘解由左衛門と多治見一党を配置します。そして長井自身は関という所から五十町離れた所に本陣を構えます。
9月28日、この状況を知った信長は堂洞砦の攻撃を命じます。
合戦当日、風が強かったためこれを利用し火攻めの策をとります。信長は松明を作らせ、砦の壁際まで近づいたところで四方から松明を投げ入れさせます。
堂洞砦が攻撃されているの知った長井道利も出陣してきますが、信長はこれを計算に入れて、軍勢を配備していたため、長井道利は兵を動かすことが出来ずこう着状態に陥ります。
こうしている間に二の丸が焼き崩れ、本丸は丸裸になりそこへ織田方の河尻秀隆が突撃します。丹羽長秀もこれに続き突撃しますが、斎藤方の岸勘解由左衛門や多治見一党の反撃もすさまじく敵味方の区別もつかない程の大乱戦になります。激戦の末、ようやく敵の大将格をみな討ち果たし堂洞砦は陥落します。
この夜、信長は加治田城の佐藤父子のもとへ行き対面。信長自らが指揮し加治田城を守ってくれたことに佐藤父子は感激のあまり涙し言葉も出ないほどだったそうです。その夜信長はは、息子・右近右衛門の屋敷に宿泊します。
翌日、信長は堂洞の麓の町で首実検をし、引き上げようとしたところへ突如、また斎藤龍興が自ら軍勢を率い出陣してきます。龍興は井口方面から攻め掛かり、関方面から長井道利が織田軍に迫ります。その数三千以上。対する織田勢800足らず。信長は広い平野まで急ぎ退き、陣を立て直すと負傷者や使用人をまず退却させます。そして、追撃してくる斎藤勢に備えさせます。見事な采配に斎藤勢は追撃をあきらめ、織田勢は無事、兵を引き上げました。
この年、池田輝政や長宗我部元親の長男・信親が誕生します。