【信長史】1559 尾張の実権掌握

■信長、初上洛

永禄2(1559)年、信長26歳。

2月2日、信長は突如、上洛します。供をする者わずか80名。

尾張の統一が迫ったこの時期あえて危険を冒して上洛を決意した信長の目的は13代将軍・足利義輝との謁見でした。室町将軍より尾張支配の許可を得てそれを大義名分としようとしたのかもしれません。


ちなみに越後(新潟)の長尾景虎(のちの上杉謙信)も、天文22(1553)年と信長上洛と同じ年の永禄2(1559)年の2回、上洛して天皇や足利義輝と謁見しています。

さて、信長一行ですが、初の上洛ということもあって、かなり気合が入っていたようです。信長はもちろんのことお供の衆もみな金銀の飾りを施した大刀を差して派手な装いであったそうです。数日間滞在し、この間に京都や奈良・堺を見物、将軍・足利義輝の謁見したようです。


この義輝との謁見で、信長は室町幕府への忠節を誓い多くの金品を献上したと思われ、その見返りとして尾張を支配する許しを得たようです。これを大義名分とし信長は帰国後、尾張統一の総仕上げを行うことになります。

この上洛時ひとつの事件が起こります。
清洲の那古野弥五郎(織田の一族)の家臣に丹羽兵蔵という者が信長一行とは別に偵察のため先行して上洛します。京へ向かう途中、30名ほどの怪しげな一団と遭遇します。会話も不審だったため、こっそり後をつけます。その一行の中に少年がいたのでこれを手なずけ、この不審な一団の話を聞きだすと、信長暗殺を企む美濃衆であることが判明します。


丹羽兵蔵は急ぎ、京に先回りし、美濃衆の宿を確認し目印を残します。そして、上洛した信長にこのことを告げます。
信長は金森長近に命じ、丹羽兵蔵と供に美濃衆の宿に向かわせます。長近は美濃衆に信長が既に暗殺計画を知っていると伝えると、美濃衆は血相を変えて驚きます。


翌日、美濃衆のうち6人が小川表(京都市中京区)に向かいますが、信長も自ら同じ場所に向かい彼らに対し、「未熟者の分際で信長を狙うとはカマキリが馬車に立ち向かうようなものだ!ここでやってみるか!」と恫喝します。信長のこの大胆な行動に驚いたためか、美濃衆は何も出来ませんでした。


しかし、信長は、数日後、美濃衆の襲撃を警戒したのか、近江の守山に下り、翌日雨の降る中、明け方に出発。相谷(滋賀県・永源寺町)から八風峠(鈴鹿山脈)を越え清洲までの二十七里(約105km)を急ぎ帰国します。清洲へ到着したのは午前4時前後だったそうです。

 

 

■尾張守護代・岩倉織田家の降服

3月頃、京から戻り間もなく信長は岩倉城攻略に乗り出します。

前年の「浮野の合戦」で大敗を喫していた岩倉城の織田信賢は籠城を余儀なくされます。信長方は、手始めに城下の町を焼き払い城を裸城にしてしまいます。そして、城の周りに鹿垣(ししがき:柵)を二重三重に張り巡らし包囲します。信長は配下の兵に交代々々に城の周りを監視させます。


三ヶ月近く包囲を続けましたが、岩倉城の信賢はいっこうに降伏する気配がなく信長は力攻めを決意します。信長は、火矢や鉄砲を岩倉城に向け打ち込み攻撃させます。長期に渡る籠城で戦意を失いつつあった信賢は降伏を決断。城を明け渡し城兵は散り散りに退散。信賢も追放されます。


この後、信長は岩倉城の破却を命じ清洲城に帰還します。
信賢の降伏により、父・信秀の死から8年ようやく織田家中で信長に敵対する者はほとんどいなくなり、尾張を“ほぼ”統一するに至りました。“ほぼ”と書いたのは織田家中でも美濃との国境に近い尾張北部の犬山織田家が完全に服していないほか、三河との国境に近い尾張の一部は今川家の支配下になっていたためです。

 


この年、信長の側室・生駒の方が長女・五徳(次女説も)を生みます。同年、松平元康(後の徳川家康)も長男・信康が誕生しています。後に結婚することになる運命の二人の誕生です。