永禄元(1558)年、信長25歳。
月日は不明ですが、おそらく前半、信長への反逆を企てたとして、尾張守護の斯波義銀を国外に追放します。三河の守護・吉良義昭や駿河の今川義元らとひそかに通じており、それが露見したための追放でした。義銀は2年前の吉良義昭との対面の際、ともに序列にこだわりいがみ合っていたようですが、信長の傀儡であることに我慢できず信長排除を計画していたのかもしれません。
この頃、殺害した弟・信勝と共謀して信長に敵対していた岩倉城でも異変が起きます。城主・織田信安が長男の信賢によって国外へ追放されてしまいます。
これは、信安が家督を次男の信家に譲ろうとしたため、信賢が先手を打っての行動でした。このように本家筋の尾張上郡の岩倉・織田家が混乱している状況を信長は見逃しませんでした。
7月、信長は岩倉攻めを開始します。清洲と岩倉は直線にして三十町(約3.3km)の距離でしたが、正面は要害のため攻め難く、そのため岩倉の北方の浮野(愛知県一宮市)というところへ布陣。信賢方は3千の兵で出陣してきますが大敗を喫します。信長は、この日はこのまま清洲に戻りますが、討ち取った敵兵は1200以上だったそうです。
この年、信長の側室・生駒家宗の娘が、次男・茶筅丸(後の信雄)を生みます。そして、別の側室・坂氏の娘が三男・三七朗(後の信孝)を生みます。信長死後、家督を争う運命の二人の誕生です。
実は、二十日ほど早く信孝が生まれていましたが、信長への届出が遅れたため三男にされてしまいました。側室の身分が低かったためともいわれています。こんなこともあり、幼い頃からこの二人は互いにライバル視していたかもしれませんね。