弘治2(1556)年、信長23歳。
4月、道三は信長と呼応し出陣。道三は鶴山という所に布陣。信長は、木曽川を渡った大良(大浦)という所に布陣します。(両者の距離は直線距離で10数キロメートル)
陣を敷いて2日後、義龍が出陣してきます。これを見て道三も長良川まで軍勢を押し出してきます。緒戦、道三方が有利に展開しますが、義龍が本隊を率いて川を越えてくると徐々に道三方は押し戻されます。この状況を知った信長は、大良から道三救援に向かいます。しかし、信長の到着直前、道三は、義龍の家臣・長井忠左衛門と小真木源太により討ち取られます。この時、長井忠左衛門は自分が討ち取った証に道三の鼻を削いだといわれています。
道三は死ぬ前、美濃を信長に譲ると遺言したと言う話もありますが、真偽のほどは定かではありません。
父・道三を討ち取った斎藤義龍は、首実検を終えると信長が陣取る大良(大浦・岐阜県羽島市)に軍勢を進めます。
信長が30町(3.3km)ほど軍勢を推し進めたところで両軍は遭遇し、合戦になります。この戦いで信長方の山口取手介と土方彦三郎が討ち死に。森可成も負傷し退却。この戦いのさなか「道三は討ち死にした」との報が入り、信長は退却を決断します。退却の際、信長は自ら殿(しんがり)を務め、配下の者を退却させます。義龍軍の追撃に対し信長は鉄砲で応戦。これに驚いた義龍軍の兵は追撃を断念。信長も無事退却します。
道三の死は反信長勢力にとって信長を討つ絶好の機会になったようで、まもなく尾張国上四郡を支配している岩倉城の織田信安(妻は信秀の妹)が信長に敵対します。信安軍は清洲城近くの下の郷(愛知県・春日村)を焼き討ちにします。信長も岩倉方面へ出撃。付近を焼き払い撤退します。ちなみにこの岩倉織田氏の家老に山内一豊の父・盛豊がいました。
4月上旬、駿河の今川義元の提案で三河の守護・吉良義昭と尾張の守護・斯波義銀が和睦交渉を行うことになったようです。
会見場所は三河の上野原。義銀には信長が随行し、義昭には今川義元が補佐役としてつき従っていたようです。両者は160メートルほどの距離を置き、陣を張り両守護は床几に腰かけたまま動きません。ともに守護という立場であり序列をどうするかで問題になったようです。両者はひとまず10歩ほど歩み寄りますが、互いにこれ以上譲ることなく再び戻ってしまいます。
結局、両陣営とも陣を引き払い帰国。同盟交渉は決裂したように思いますが実際どうなったかは不明です。
帰国の後、信長は義銀に清洲城を進上し、自らは北櫓に移ります。信長は尾張守護である義銀を表向きは敬っていましたが、実質は傀儡政権にすぎませんでした。
5月26日、信長は弟・秀俊(信時)と二人きりで突如、林秀貞のいる那古野城に乗り込みます。この時期、林秀貞兄弟に既に不穏な動きまたは噂があり、信長は自ら何が不満なのか問いただしに行ったようです。
たった二人きりで乗り込んできた信長を見て、秀貞の弟・美作守が信長を討とうと話を持ちかけます。しかし、秀貞はさすがに織田家三代に仕えてきたので、そのようなことは恥と思ったようで、その策を却下します。
このとき那古野城内で、信長と林兄弟の間でどのような話があったのか不明ですが、たぶんこの時期、林兄弟に既に不穏な動きまたは噂があり、信長は自ら何が不満なのか問いただしに行ったのではないかと考えられます。
おそらく林兄弟は信勝(信行)に家督を譲るよう信長に迫り、当然信長は、受け入れる訳もなく話し合いは決裂し、その数日後、林兄弟は自分たちの配下の者たちとともに蜂起し、信長に敵対したのではないでしょうか。
林兄弟の蜂起に荒子城の前田利昌?や林の与力で米野城主の中川弥兵衛、大脇城主の梶川五左衛門?も林に同調し、信長に敵対します。
林兄弟は信長の弟・信勝(信行)を担ぎ出し、信長の直轄領を奪い、ついに信長・信勝兄弟の戦いが始まります。
6月、秀俊(信時)は、前述のように旧織田信次家臣の角田信五により寺外に追い込まれますが、表向きの理由は待遇に不満を持ったためだったようですが、時期的に信長派の秀俊を猿害するよう林兄弟が裏で糸を引いていたというのは考えすぎでしょうか?
8月、信長の弟・信勝(信行)が信長の直轄領である於多井川西岸の篠木三郷(愛知県春日井市)を攻め取ります。この動きに対し、信長は東岸の名塚(名古屋市西区)に砦を築き佐久間盛重に守らせます。
23日、大雨で水かさが増したところへ信勝方の柴田勝家の手勢1000と林美作守(秀貞の弟)の手勢700が出陣してきます。
24日、信長も清洲から700ほど兵を引き連れて出陣。
序盤、稲生の外れの街道を柴田勝家軍進み、林軍も別口から信長軍に攻めよせ、信長方の佐々成政の兄・孫介をはじめ屈強の者が多く討死し、負傷した兵もぞくぞくと信長本陣へ退却してきます。この状況に信長が一喝。大声を上げで激怒する信長の姿を見て敵も味方も恐れをなし、信長軍は奮起し、柴田・林軍は総崩れになります。
退却する林軍に信長軍は襲い掛かります。信長方の黒田半平と林美作守が長時間に渡り切りあい、黒田半平が左手を切り落とされたところへ信長自ら助けに行き美作守を討ち取ります。これにより信勝方の柴田・林軍は退却。信長の勝利に終わります。
これ以降、信勝は末盛城に籠城。林秀貞も那古野城に籠城することになります。このとき信長の母・土田御前も末盛城内に居り、この母が信長配下の村井貞勝と島田秀順を通じて、「信勝らを許してほしい」と嘆願してきます。信長母の願いを聞き入れ信勝を許し和睦します。
具体的な時期は不明ですが同じころ弟・信勝に続いて、今度は腹違いの兄・織田信広が謀反を企てます。
この年4月、父・斎藤道三を殺し美濃の国主になっていた斎藤義龍と信広は密約を交わしていました。
信広は、合戦の際、清洲城下を通ると城の留守居役・佐脇藤右衛門が必ず接待する事に目をつけ、次の戦の際、接待に出てきたところを殺害し清洲城を奪い、うまくいったら合図の狼煙を上げるという計画をします。
この計画を実行すべく、斎藤軍が動き出します。斎藤軍は、あまり攻める気配もないような状態で集結。この様子を見た信長は、何か策があると直感します。そして、清洲城の佐脇には、城外に出ず何者も城内に入れてはならぬと指示し守りを固めさせます。
そんなことも知らず、兄・信広はいつものように出陣。清洲城に到着すると「信広殿到着」と清洲方に申し入れます。しかし、城内には入れてもらえず、計画が発覚したと思い、信広はあわてて撤退します。これにより、斎藤軍も作戦を中止し退却することになります。信長の洞察力・判断力によりひとまず危機を脱することができた出来事でした。
この年、11月、蒲生氏郷(のちの信長の娘婿)が誕生。