天文24((弘治元・1555)年、信長22歳。
清洲勢が再び動き始めます。前年の中市場の合戦で主力を失った坂井大膳が、信長に協力的な織田信光(信長の叔父)を味方に付けるべく画策。「織田信友と共に守護代になって欲しい」と頼みます。信光はこれを快諾。起請文(誓約書)も書いて坂井大膳と約束します。
しかし、これには裏があり織田信光は信長と密約を交わしていました。「清洲城を奪って信長に譲るので、その代わり尾張下四郡の東半分をください」と話を持ちかけます。
4月20日、その密約通り、信光は行動します。清洲城の南櫓に移り住んだ信光に坂井大膳がお礼参りに来ます。それを討ち取る手はずを整えていましたが、その異様な気配を感じた大膳は、駿河の今川義元の元へ出奔。信光は、すかさず織田信友を追い詰め、切腹させ清洲城を乗っ取り、約束通り信長に譲り、信光は、那古野城に移ります。
しかし、この7ヵ月後の11月、信光は“不慮の事件”により死にます。この“不慮の事件”については『信長公記』には書かれていませんが、謀略により清洲城を奪った信光を信長は信用できない人物と見て、殺害を何者かに命じたのではないかという説があります。ある資料には、信光は家臣の坂井某に殺されたという記述があります。
この年、信長は依然、尾張を統一出来ていない状況ながら、守護代もいなくなり実質的には、尾張でナンバー1の立場になったように思います。
※写真は、数年前の名古屋旅行で管理人が撮影した清洲城(模擬天守閣)です。実際にあった場所とは少し離れていています。実際にあった場所は石垣のごく一部が残っているだけの状況でした。また、清洲城は、現在の名古屋城築城の際、建材として使用され、名古屋城御深井丸の西北櫓は「清州櫓」とも呼ばれています。
この年、西国では、『厳島の合戦』があり、主家の大内義隆を自害に追い込こみ、大内氏を乗っ取った陶晴賢を、毛利元就が安芸国厳島で、わずか三千の軍勢で陶軍二万五千を奇襲によりうち破り勝利します。
守山城主は、当初、織田信光でしたが、信光が那古野城に移ったのを機に信光は、弟の織田信次に守山城を譲ります。
6月26日(7月6日とも)、信次は家臣とともに川へ出かけます。この時、何者かが馬に乗ったまま、信次の前を通ります。これに怒った信次の家臣・洲賀才蔵が矢を射掛けます。この矢には見事に命中し乗っていた男は落馬。しかし、落馬した者をよく見ると、なんと信長の弟の秀孝でした。
秀孝は、不運にもこのまま死んでしまいます。この時15・6歳だったといわれています。青ざめたのは、信次。信長の報復を恐れ、このまま守山城に戻らず、出奔してしまいます。
この件を知った信長の弟・信勝(信行)は、烈火のごとく怒り居城・末盛城から守山城へ独断で攻め込み城下に火を放ち裸城にします。
信長は、この信勝の行動を「供も連れず一介の下僕のように駆け回るとはあきれた所業。決して許すことはできぬ」と非難します。しかし、仲違いしている状況ではなかったので、信長は飯尾定宗らに守山城攻めを命じ、信勝配下の柴田勝家らとともに守山城を包囲させます。守山城内には、信次の家老衆が籠城しますが、支えきれないと判断し降伏します。
この後、守山城主になったのが信長の弟・秀俊。『信長公記』には、弟の信時となっていますが、秀俊と同一人物と思われます。信時は、信長の異母兄・信広と同腹の兄弟と考えられています。
翌年1556(弘治2)年6月、秀俊(信時)は、待遇に不満を持った旧信次家臣の角田信五の謀略により詰め腹を切らされてしまいます。この後、角田信五がどうなったかは不明ですが、秀俊の死後、信長は流浪していた叔父の信次を許し、守山城主に復帰させます。
10月、隣国・美濃で大事件が起こります。斎藤道三の長男・義龍が、自分をないがしろにし、弟の孫四郎や喜平次ばかりを優遇する道三に不満を抱き、一計を案じ、病気を装い寝たきりになります。
11月下旬、稲葉山城下の居館に道三が戻った隙を突いて、義龍は行動を起こします。叔父の長井道利を使者にし、弟の孫四郎と喜平次に「義龍が重病のため長くないので会いたがっている」と告げます。
一ヶ月余りも寝たきりの状態で、この話を信じてしまった二人は兄・義龍の元へ行きます。奥の間で食事まで出して安心させたところを突如、義龍の家臣・日根野弘就が斬りつけ二人を殺害します。
これを知った道三は、すぐさま軍勢を集め、稲葉山城下を焼き払いひとまず兵を引きます。以後、道三と義龍のにらみ合いが続くことになります。