天文21(1552)年、信長19歳。
父・信秀の死から約一年。信長は早くも謀反を起こされます。謀反を起こしたのは、今川家との国境の重要拠点を任されている、鳴海城の城主・山口教継とその息子・教吉。駿河の今川勢を尾張領内に手引きして侵入させてしまいます。山口教継は、鳴海城に息子・教吉を入れ、領内の要所に今川家の葛山長嘉・岡部元信らを配備。自らは中村の居館を砦に改築し、立て籠もります。
4月17日、これを知った信長は800の軍勢を率いて出陣。三の山へ登り本陣を構えます。信長より一歳年上の山口教吉は、鳴海城から北へ約2キロの赤塚(名古屋市緑区)へ1500の軍勢を率い出陣。
この状況を三の山(山王山?)から見ていた信長は、出撃命令を出します。信長方の先陣は、荒川与十郎・蜂屋般若介・長谷川橋介・内藤勝介ら足軽衆。両軍の先陣が約10メートルの距離に近づいたところで互いの弓隊が矢を放ち、数時間におよぶ合戦が始まります。
ほとんどが尾張の人間だったので顔見知りも多かった合戦ですが、共に容赦なく攻撃を仕掛け、ほぼ互角に渡り合います。乱戦であったため討ち取った敵の首も取ることができない状況でした。
信長は30人の死者を出しながらも山口父子を討ち取れず、その日のうちに帰陣。結局、この地域は今川方の手に落ちることになります。
合戦後、生け捕りにした兵や敵陣に駆け込んでしまった馬などは互いに交換し合ったようです。この後、鳴海城には今川の重臣・岡部元信が城代として入ります。
この数年後、桶狭間の合戦直前、織田方の謀略?で駿府城下に山口父子が再び織田方に寝返るという噂が流れます。これを知った駿河の今川義元は山口父子を呼びよせます。何も知らない山口父子は褒美をもらえるものだと思い義元の下へ出仕。しかし、褒美をもらうどころか、切腹を命じられることになります。
8月15日、再び信長は家中の反乱に遭います。今度は、清洲城の坂井大膳・坂井甚介・河尻与一・織田三位が敵対し、松葉城と深田城(共に愛知県海部郡大治町)に攻め寄せます。松葉城の織田信氏、深田城の織田達順は共に人質を差し出し降伏し、信長への敵対を強要されます。
8月16日、これを知った信長は那古野城から出陣。守山から駆けつけた叔父の織田信光と共に清洲勢と戦います。数時間の激戦の末、家老の坂井甚介を柴田勝家と中条小一郎が討ち取り、その他にも名のある者が50人ほどを討ち取ります。
清洲方は松葉城からも出陣してきますが、信長方が優位に合戦を進め撤退さます。深田城から出撃してきた部隊も信長方が簡単に攻め崩し、30人余りを討ち取ります。
大敗した清洲勢は深田・松葉両城を信長に明け渡し、生き残ったものは、清洲城に撤退します。この合戦以降、信長は清洲城攻略に乗り出します。