天正8(1580)年、信長47歳。
この年何月かは不明ですが、信忠の嫡男・三法師が誕生します。信長にとって初めての男子の孫でした。後に秀吉の「秀」の一字を与えられ秀信と名乗ることになります。
母は、信忠の側室・塩川長満(国満か?)の娘という説が有力と思われますが、他に森可成の娘や婚約しながら破談になった武田信玄の娘・松が母という説もあります。
塩川(塩河)長満と国満はいろいろな文献で混同されることが多いようで、親子関係なのか親戚関係なのか不明ですが、同一人物という見方もあるようです。
ちなみに国満は荒木村重の娘婿になっています。村重と信長はほぼ同年(1才差)なので、年齢的に信忠の側室となった女性は村重の娘を母とする子ではないと思いますが?
三法師は、2年後の天正10年、本能寺の変により信長・信忠が死去したため信雄と信孝が家督相続を争ったいわゆる清洲会議の際、秀吉に担がれわずか3歳で織田家を継ぐことになり、悲運の生涯を送ることになります。
1月、この年も前年同様、各方面で軍事行動が進行中であり、信長は正月の挨拶は無用との通達を諸将にしていたため出仕する家臣はいませんでした。元日の安土は終日雪だったようです。
1月6日、羽柴秀吉が包囲中の播磨の三木城攻めで動きがあります。別所長治の弟・友之が守る宮ノ上砦(宮の丸・三木城郭の一角)に秀吉自ら兵を率い攻めかかります。守備兵は、ほとんど抵抗できずに三木城本丸へ逃げ込み、砦は羽柴軍が占拠。この砦の占拠により別所軍の状況が詳細に把握できるようになったようです。
11日、長治の叔父・別所賀相(吉親)の居城・鷹ノ尾城の状況を把握した秀吉は再び軍勢を率い攻め掛かります。賀相は、この攻撃を防ぎきれないと判断し、三木城へ撤退。このとき羽柴軍は追撃します。三木城内から打って出る城兵がいましたが、続々攻め寄せる羽柴軍に返り討ちにあってしまったようです。
この攻撃のとき三木城本丸の一部が焼け落ちます。
『別所長治記』によれば別所軍は長期にわたる兵糧攻めですでに手足はまともに動かず、鎧を着て身動きすることが困難な状態で、羽柴軍の攻撃に対し一方的に城壁や櫓に切り伏せられる状況だったようです。
15日、秀吉は、別所長治謀反の際それに反対し織田方に加わっていた別所重宗(長治の叔父で、賀相の弟)を通じ、三木城内の小森与三左衛門に降伏勧告の書状を届けさせます。
内容は「摂津の荒木一族や丹波の波多野兄弟のような最後を迎えては後の世まで笑いものになり残念です。悪あがきはやめ切腹するのがよいでしょう」というものでした。
これを受け別所長治・友之・吉親の三人は、「三人は切腹するので城兵の命は助けて欲しい」旨の返書をしたため小森に届けさせます。
秀吉は、長治らの覚悟に感銘し受諾を決意。酒2・3樽を城内に届けさせます。
長治は、妻子や兄弟、家老らを集め17日に切腹する決意を表明。別れの盃を交わします。
1月15日?別所長治は叔父・別所賀相(吉親)に17日に切腹するよう命じます。それを受けた賀相は、切腹後、秀吉に首をさらされることを懸念し、城に火をかけて骨もわからないようにしてしまおうと、屋敷に火をかけます。
しかし、発見した家臣らが賀相を取り押さえ、その場で切腹させます。
17日、申の刻(午後4時前後)長治は予定通り妻子を呼びつけます。わずか三歳の子を膝に置き、涙しながら刺し殺します。続いて妻も引き寄せ刺し殺します。弟・友之も兄同様に妻を刺し殺します。
別所兄弟は、手を取り合い広縁用意された一畳の畳の上に座し、家臣にこれまでの働きをねぎらい礼を述べ、「自分たちの切腹で家臣が助かるのはこの上ない喜び」と笑顔で語り、最初に長治が切腹して果てます。享年26歳(23歳とも)。
介錯した家老・三宅肥前入道治忠は、「最後を見届けておけよ」と腹を十文字に切り、腸(ハラワタ)を引きずり出して死にます。
弟・友之は、家臣に太刀や脇差などを形見として分け与えると、兄が切腹に使った脇差を使い切腹して果てます。享年25歳(22歳とも)
さらに叔父・賀相の妻は、3人の子(うち女子1人)を一人ずつ刺し殺し、自らも喉を切り自害して果てます。
自害した別所兄弟や妻たちは辞世の句をひとりの小姓に託しており、そこには悲痛な心情が詠まれていました。(『信長公記』にはその句が記されています。)
別所兄弟と叔父・賀相の首はこの後安土に届けられます。
秀吉は、三木城を攻略すると別所氏に従っていた長水城(宍粟郡山崎町)の宇野民部や英賀城(姫路市・夢前川の河口)の小寺識隆(のりたか)を攻め、これを攻略。
余談ですが、英賀城内の英賀御坊(本徳寺)の門徒や雑賀衆もこの合戦に参加していました。(長水城攻めはこの年4~6月、詳細ついては後日記載予定)
こうして「三木の干し殺し」と後に呼ばれる、約二年にわたる別所氏と織田軍の戦いは終結します。
有岡城に続く三木城の陥落は石山本願寺の顕如に大きな衝撃を与え、顕如は諸国の寺々に対し黒印状を発し、協力を要請しています。
顕如が恐れるように、この地域における、次の信長の標的は当然ながら石山本願寺でした。
1月下旬?、大坂石山本願寺の周辺でひとつの噂が流れます。
「三月初めに信長が当表(石山本願寺)に執り詰める(攻め寄せる)」
前年12月に荒木氏の守備する有岡城(兵庫県伊丹市)が落城し、それにつづき別所氏の三木城(兵庫県三木市)も落城したため完全に孤立した石山本願寺にとって、この噂は現実味のあるものとして捉えられたことと思われます。
この噂は石山本願寺を窮地に追い込んだ信長が和睦交渉を優位に展開させるため流した策略であったとも考えられています。
2月21日、信長は京・妙覚寺に入ります。鷹狩りや本能寺の普請を村井貞勝に命じるなどして数日過ごします。
27日、山崎(京都府・大山崎町)に出陣し、荒木方が抵抗を続ける花隈城に対する砦を築くよう、甥の津田信澄や塩河(塩川)国満・丹羽長秀に命じ、その砦を池田恒興・元助・輝政父子に守備させることにします。
28日、山崎に滞在する信長のもとに根来寺(和歌山県岩出市)の岩室坊(子院のひとつ)が挨拶に訪れ、信長は馬などを与えます。
3月1日、朝廷は近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保を勅使として石山本願寺の顕如のもとへ派遣。信長との和睦を勧告します。信長はこの勅使の補佐として松井友閑と佐久間信盛を同行させます。
3日から7日にかけ信長は前年に落とした有岡城を視察と称し、伊丹周辺に滞在。この間、萱振(カヤフリ:河内)にある本願寺方の寺内町を焼き払います。
これは勅使の派遣とほぼ時を同じくしており、石山本願寺に「和睦を受け入れなければ本当に攻めるぞ」という無言の圧力を加える目的があったものと思われます。
本願寺の顕如は、石山の地を退去するという条件を含めた数々の難条件を受け入れることに難色を示し、信長に再考を願いますが信長はこれを拒絶。和睦交渉の打ち切りまで打ち出し強硬姿勢を崩しませんでした。
顕如の決断のときが迫ります。
3月17日、信長は、和睦条件を記したこの日付の誓詞・起請文を本願寺に送ります。
『本願寺文書』に記された条件を要約すると、
・すべての門徒を許す
・大坂は退去すること
・恭順の意を示せば加賀の二郡は本願寺に返還する
・退去の期限は7月の盆前
・花隈(花熊)、尼崎は大坂退去の時明け渡すこと
信長は、起請文の最後に(めったに押さない)血判まで押し、本願寺との長期にわたる戦いを終結させようとしていました。
本願寺内部では、この和睦条件の受け入れをめぐり、宗主・顕如やその妻で本願寺内で強い影響力を持っていたといわれる如春尼(にょしゅんに)を筆頭とする“和睦受け入れ派”と、顕如の長男・教如を筆頭とする“徹底交戦派”が対立。反対派には寺内町衆や雑賀衆が加わっていました。
実は前年12月に正親町天皇より女房奉書(天皇の意を受けた女官の奉書)が本願寺に手渡されており、信長との和睦を命じられていました。これを機に翌1月、顕如は家老の下間頼廉らを使者として毛利氏に派遣。本願寺を毛利領内に移す計画をしますが断られていて、大坂を退去してどこに本願寺を移すかも問題になっていました。
さらに本願寺内部では信長の“騙まし討ち”を恐れていました。
信長は近衛前久にも書状を送り、本願寺の疑念を晴らす努力をし、さらにこの和睦は天皇の意向であることを強調します。
この3月、村重は長男・村次と花隈城の荒木元清らと共に毛利領に逃げ込んだといわれています。しかし、主を失った花隈城(神戸市中央区)はなおも抵抗を続けます。
※3月、尼崎城落城としていましたが、誤りでした申し訳ありません。また、村重や村次らはこの時点でまだ毛利領へ脱出はしていないという説もあります。
閏3月2日、包囲していた花隈城から荒木方の兵が出陣してきます。この戦いで池田元助・幸親(後の輝政)兄弟は15~16歳でありながら大活躍したようです。
信長は再び本願寺に対し、この日付の朱印状をしたため、誓紙に書いたことに偽りがないことを伝えます。
閏3月5日、顕如は下間三家老を説得し、勅使に対し和睦受け入れを伝えます。
強硬派を無視した決断でした。
6日、信長は誓紙作成の検使として青山虎を天王寺に派遣。
7日、誓紙に署名した顕如・如春尼(北の方)・下間仲之(頼照の子)・下間頼廉・下間頼龍にそれぞれ黄金15~30枚を与えます。
こうして本願寺の”顕如ら和睦受け入れ派”との和睦が成立します。
閏3月9日、石山本願寺の顕如が和睦を受け入れたわずか4日後のこの日、こう着状態が続いていた北陸方面の柴田勝家が攻略を進めていた加賀(石川県南部)で本願寺一向一揆と織田軍の大規模な戦闘が行われます。
勝家は添川・手取川を越え宮ノ越(金沢市)に本陣を構えます。一向一揆は野々市砦に立て籠もり抵抗。勝家軍は、これを攻め多数討ち取ると兵糧を奪い取り、周辺各地を焼き払いながら進軍を続けます。快進撃は止まらずついに越中(富山県)国境を越えるまでに至り、安養寺越え(石川県・鶴来町)付近も焼き払います。そして木越(金沢市)の寺内町にも攻め入り一向一揆を多数討ち取ります。
また、能登方面(石川県北部)では、織田方の長連龍が勝家軍と呼応し、各地を放火しながら進軍し、飯山(羽咋市)で上杉方の温井景隆を打ち破ります。
この時、勝家のもとに顕如が和睦を受け入れたとの情報が届いていたかは不明です。しかし和睦の話が進んでいることは当然知っていたと思われ、約4年にわたり加賀方面を攻めながら大きな戦果をあげられなかった勝家が功をあせり強攻策に出たのか、または信長から和睦が成立する前に加賀を平定するよう密命を受けたのかは不明です。
閏3月11日、信長はこの日付の書状で、各地で本願寺勢力と戦闘を続けている諸将に『矢留』といわれる停戦命令を発布。
この命令を受けた主な武将は、本願寺攻めの総大将佐久間信盛・信栄父子、石山本願寺の海上封鎖を受け持つ九鬼義隆・滝川一益、播磨・英賀と交戦している羽柴秀吉、そして、はっきりはしませんが柴田勝家も命じられたものと思われます。
4月9日、顕如は門跡(宗主)の地位を嫡男・教如に譲り、大坂を退去。紀州鷺森(和歌山市)へ移ります。妻の如春尼(北の方)や下間頼総ら主だったものは顕如に従います。
しかし、新門跡となった教如は、和睦反対派(雑賀衆や寺内町衆ら)が当分は石山に在城した方がいいとの意見を受け入れ、この後も信長に抵抗を続けることになります。