天正7(1579)年8月20日、徳川家が信康問題で揺れている頃、信長の命を受け織田信忠は摂津・有岡城攻めのため岐阜から出陣します。
22日、信忠軍に堀秀政が合流し、小屋野(昆陽・兵庫県伊丹市)に着陣し、有岡城包囲軍に加わります。
村重が有岡城に籠城して約10ヶ月。毛利家は九鬼水軍に木津川河口で惨敗し、一時の勢いを失い、丹波は明智光秀により平定され、石山本願寺も織田軍の厳重な包囲のため籠城を余儀なくされている状況。
有岡城の村重もかなり追い詰められた状況になっていました。
9月2日夜、村重は、状況打開のため有岡城を脱出。嫡男・村次が守る尼崎城へ向かいます。共をする者わずか5~6人。この脱出の際、村重は、お気に入りの茶道具『葉茶釜』と愛妾も連れて行ったそうです。
一般に村重のこの行動は、有岡城の一族・家臣を見捨てたように言われていますが、この頃、尼崎城には、毛利家臣・桂元将が援軍として入城しており、毛利家との連絡を取りやすい尼崎城に拠点を移した方が有利と判断したための脱出であったとも考えられているようです。
主を失った有岡城は、その後約二ヶ月に渡り奮戦しますが、残された村重の一族・家臣を悲劇的な最後を迎えることになります。
9月、荒木村重が摂津・有岡城を脱出した頃、東の武田攻めで大きな動きがありました。
9月5日、徳川家康と相模の北条氏政が同盟を結びます。
武田家と北条家は、上杉謙信死後の景勝と景虎の家督相続争い(御館の乱)を機に関係が悪化。武田勝頼は、上杉景勝と誼を通じており、この徳川・北条同盟により完全に断交に至ります。勝頼は、この同盟に対抗し、翌10月には、妹・菊を景勝に嫁がせ上杉家との関係を強めます。
9月11日、京に滞在していた信長のもとへ氏政の弟・氏照が訪れ、鷹三羽を献上。織田家とも友好関係も深め、織田・徳川・北条による武田包囲網は強固になります。
13日、勝頼と氏政は駿河(静岡県)・黄瀬川で氏政と対陣。この間に氏政は家康に出陣を要請。家康は、武田方の駿河・持船城を攻略。
25日、勝頼は、氏政との対陣を切り上げ、徳川攻めに向かいます。しかし、家康はこの動きに対し、勝頼との対決を避け遠江に撤退してしまいます。
この徳川・北条同盟でもう一人微妙な立場になった大名がいました。常陸(茨城県)の佐竹義重です。
佐竹義重は、北条氏とは長年対立関係にあり、上杉氏とは反北条同盟を結んでいた時期があり、武田家とは、同じ清和源氏の血筋で、一時信玄と反北条同盟を結んでいました。後に武田家とは、織田家との友好関係を重んじため疎遠になっていましたが、勝頼は、同じ清和源氏として反北条同盟を再び築こうと義重に接近していたようです。
足利義昭は、信長に奉じられて上洛する前に佐竹義重にも幕府再興を呼びかけていたようで、中央でもその名が知れ渡っていたようです。義重自身も中央の情勢を常に気にかけていたようで早い時期から信長と友好関係を築いていました。
織田家と徳川家は、強固な同盟関係であり、その徳川家が仇敵・北条氏と同盟。結局、義重は中央の権力者である信長との友好を選択したようで、以後信長が本能寺の変で倒れるまで、北条家とは大きな合戦をしていないようです。
※佐竹氏や北条氏について知識がほとんどないので、この記事に誤りがある可能性があります。私の解釈が間違っていたらぜひお知らせください。
後に勝頼は、同じ清和源氏で信長と友好関係にある佐竹義重の仲介により織田家との和睦も模索したという説もあります。
9月、徳川と北条の同盟が締結された頃、羽柴秀吉が包囲している播磨・三木城攻めでも動きがありました。
9月4日、秀吉が急遽、安土の信長のもとを訪れます。用件は、毛利方に付いていた宇喜多直家が降伏を申し入れてきたので、それを受け入れることにしたので信長に朱印状をしたためて欲しいと言うものでした。しかし、信長は事前に相談なく、勝手に直家の降伏を認めた秀吉に激怒し、追い返してしまいます。
秀吉は、この年、早い時期に宇喜多直家と接触していたようで、3月に直家は毛利方の三星城およびその周辺の砦を攻め、5月2日には三星城を落城させ、城主・後藤元政を討ち取っていました。
9月10日、秀吉が播磨に戻ってまもなく、兵糧攻めに苦しむ別所長治が籠城する三木城に兵糧を運び入れるため、毛利・本願寺連合軍が出陣してきます。
生石中務大輔(おいしなかつかさのたいふ)を総大将とした連合軍は、織田方の平田砦(岡山市)に攻め寄せ、三木城兵もこれに加わり、守将・谷衛好を討ち取ります。
秀吉軍は毛利・本願寺・別所連合軍に攻めかかり、別所甚大夫・三大夫・左近尉及び三枝一族数名、さらに毛利や本願寺の将兵、数百人を討ち取ります。
11日、信長はこの播磨の合戦の戦勝報告を近江・逢坂(大津市)で受けます。
この時信長は秀吉に書状を送り「今後も精根をつめ、油断なく努力するよう」伝えます。もしかしたら、この際、直家の服属が許されたのかもしれません?
この日、すでに触れたように北条氏照が信長に鷹を献上してきます。
12日、摂津・有岡城を包囲していた織田信忠は、荒木村重が移った尼崎へ出陣し、尼崎城の近く七松(尼崎市)の二ヶ所に砦を築き小屋野本陣に帰陣します。
9月は信長周辺で次々といろいろな出来事が重なった時期でした。荒木村重の有岡城脱出、松平信康の自刃、徳川・北条同盟、宇喜多直家の降伏申し入れ。そして今回、取り上げる信長の次男・北畠(織田)信雄による伊賀攻め。
9月17日、北畠氏の養子となり南伊勢(三重県)を領国としていた信長の次男・信雄が突如、信長の許可も得ず独断で1万もの軍勢を率い、伊賀(三重県西北部)に攻め入ります。
信雄は軍勢を馬野口(鬼瘤口)と名張口の二手に分け進軍。しかし、伊賀の地は山に囲まれており信雄軍は攻めあぐねます。伊賀の国衆のひとり山下甲斐守が内通したので出陣したようですが、特別な策もなく撤退を開始します。
しかし、この退却時を狙い伊賀国衆が追撃を仕掛けてきます。混乱に陥った信雄軍は惨敗を喫し、重臣・柘植三郎左衛門保重が討ち死にを遂げます。
ちなみにこの伊賀国衆を率いたのは、伊賀の忍者として有名な百地丹波(ももちたんば)だったようです。
21日、京にいた信長は摂津へ向け出陣。途中、山崎に宿泊。
22日、信雄の無断の出陣及び惨敗の報を受けていた信長は、信雄に宛て叱責の書状を書き送ります。
この書状から推察すると、信雄は伊勢の国衆が遠征(摂津攻め)を嫌がり、隣国(伊賀)で合戦を行えば遠方へ出陣しなくていいと言う意見に引きずられたようです。しかし、このような考えは「残念」だと信長は書き記し、さらに、「上方(摂津・荒木村重攻め)へ出陣すれば天下のため・父への孝行・兄信忠への思いやりになり、自分自身のためにもなったものを重臣・柘植まで死なせ言語道断。親子の縁を切るようなことにもなると思え」と怒りをあらわにしています。
24日、信長は山崎を出発し摂津・古池田に着陣。
27日にかけ荒木村重攻めのための各陣所を視察して回ります。
10月、滝川一益は配下の佐治新介を有岡城の中西新八郎の下へ送り込みます。どのようなやり取りがあったかは不明ですが、中西は織田軍への協力を約束します。
10月15日、中西は城内の足軽大将である星野左衛門尉・山脇勘左衛門・隠岐土佐守・宮脇又兵衛を仲間に引き込み織田方に寝返ります。寝返った中西らは、滝川一益の軍勢を有岡城の惣構えの中にある上臈塚(じょうろうづか)砦へ引き入れます。この突然の織田軍の乱入に荒木軍は大混乱に陥り、多数が討ち取られ生き残った将兵は有岡城内に逃げ込みます。織田軍は城下の屋敷なども焼き払い有岡城を裸城にしてしまいます。
荒木軍の将兵は、絶望的な状況になり、内部崩壊していきます。
ある砦を守っていた渡辺勘大夫は織田方に寝返ろうとしましたが、「不届きである」と切腹を申し付けられます。
野村丹後守が守る鵯塚(ひよどりづか)砦には200人の雑賀衆も加わり織田軍に抵抗をしていましたが、多くが討ち死。野村は降伏して退去しようとしますが、これも切腹を命じられます。そしてその首は安土城に届けられます。
こうした状況に有岡城からは降伏するので助命して欲しいと言う申し出がありますが、織田軍はこの申し出を拒否し、この後、さらに一ヶ月に渡り攻撃を続けます。
10月、有岡城の本格的な攻撃開始された頃、明智光秀は、長岡藤孝(後の細川幽斎)と共に丹後の一色満信を攻め一色氏を降伏させ丹後を平定します。一説には藤孝の娘と満信の婚姻を条件に講和したともいわれています。光秀が丹波攻めを開始してから4年余り。ようやく丹波・丹後の平定がなります。
10月24日、光秀は、安土の信長へ丹波・丹後の平定を報告。
後日、丹波は光秀、丹後は藤孝へ与えられます。
これによりさらに織田軍には戦力的ゆとりが生まれ、摂津・有岡城は更なる窮地に追い込まれます。
11月19日、織田方は、有岡城に残る村重の重臣らに対し、ある条件を提示します。その条件とは、「尼崎・花熊(花隈)の両城を明け渡せば、有岡城の村重の妻子らを助命する」という内容でした。この条件を受け入れた村重の家老・荒木(もと池田)久左衛門ほか主な家臣らは妻子を人質として有岡城に残し、尼崎城へ向かいます。
このとき村重の妻らは、村重へ死を覚悟した内容の歌を送ります。これに対し村重は諦めとも取れる内容の歌を返しています。
※『信長公記』には、その歌が詳しく記されていますがここでは省略させていただきます。
重臣が退去した有岡城には津田(織田)信澄が入城し、警備のため兵を配置し、事実上有岡城は織田軍の支配下に置かれます。
10月、有岡城を占拠した同じ頃信長と北条氏政は正式に同盟を結んだようです。
すでに9月の段階で氏政は弟の氏照を信長のもとに派遣。鷹を献上し誼を通じていました。
10月25日、氏政は再び6万もの軍勢を率い甲斐の武田攻めに出陣。三島(静岡県三島市)に布陣。武田勝頼もこの動きに対し富士山の麓、三枚橋に布陣。両者は黄瀬川を挟んで対峙します。徳川家康は時を同じくして出陣。駿河に攻撃を仕掛けます。
29日、越中(富山県)の神保長住が葦毛の馬を献上。長住は謙信の死後、信長の援助により越中・富山城を奪還しており、神保氏は越後・上杉、信濃・武田への備えを担っていたと思われます。皮肉にも武田勝頼は父・信玄の仇敵であった上杉氏以外周囲を織田方の大名に囲まれる状況に追い込まれていました。
30日、荒木村重攻めの本陣・小屋野にいる織田信忠のもとには降伏を許された宇喜多直家の代理・基家(弟・忠家の子)が挨拶に訪れます。
このように荒木村重や別所長治のように信長を裏切る大名が相次ぐ一方、西に東に信長に味方する大名も次々と現れ織田政権は拡大していきます。
さらに信長は朝廷との友好関係を深めることも怠りません。
11月5日、工事が完了した二条新邸を皇室に献上。
陰陽博士の選定により22日が吉日ということで東宮(誠仁親王)が移ることになります。
12月には荒廃していた石清水八幡宮の修築を信長直轄領の山城代官・武田佐吉・林高兵衛・長坂助一に命じます。このように京の町衆の心を掴むことも忘れない信長でした。
12初旬(11月末下旬?)、織田軍に占拠された有岡城内で事件が起きます。
城内の人質である荒木方の妻子らを警護するため残っていた池田和泉守が、子供の身を案じる句を残し、火縄銃で頭を撃ち抜き自害します。
荒木村重を説得するために尼崎城に向かった荒木久左衛門らでしたが、村重は尼崎・花隈両城の明け渡しを拒否。荒木久左衛門らは、説得を断念しそのまま有岡城に戻らず出奔してしまいます。(有岡城に戻り人質らと運命を共にしたという説もあり)
激怒した信長は、有岡城に残された荒木方の将兵の妻子らの処刑を命じます。
12月12日、荒木村重の妻子ら30人余りは、京都に護送され妙顕寺の牢に閉じ込められます。護送された人質らは涙ながらに親兄弟に最後の手紙を書き残したそうです。
人質警護のために残っていた荒木方の将である泊々部某、村重の弟・吹田某および荒木久左衛門の息子・自念の三人は、京都所司代・村井貞勝の役所の牢に投獄。
荒木方の上級武士の妻子らは滝川一益・蜂屋頼隆・丹羽長秀に預けられ磔を命じます。
13日、尼崎近くの七松で、122名の人質が磔にされます。子供のいる女性は子を抱きながら磔にされたそうです。妻子らは、火縄銃で撃たれたり、槍や薙刀で刺し殺されます。
中級武士の妻子388人及びその警護や世話などを任されていた若い男子ら124人の合わせて500余名は、矢部家定が監視のもと4軒の家に押し込められ、焼き殺されます。熱さにもがき苦しみ泣き叫ぶ声が響き渡ったそうです。
14日、信長は山崎から京都妙覚寺に入り、村重の妻子・兄弟の処刑を不破光治・前田利家・佐々成政・原政茂・金森長近の越前衆5名に命じます。
16日、村重の一族は、車一台に二人ずつ乗せられ、京都市中を引き回されます。この時引き回された30余名は、村重の弟や妻子、泊々部某(50代)・吹田某(21歳)・荒木久左衛門の息子・自念(14歳)、中には村重の娘で15歳の妊娠している少女も含まれ、ほとんどが10代~20代の若者でした。
さらに幼子も含まれ、こちらは3台の車に乳母7・8名と共に乗せられていました。
村重の妻子らは、死を目前にしても取り乱すことなく、身なりを整え切られます。侍女らは泣き叫びながら切られたようですが、14歳の自念と8歳の伊丹安大夫の息子も「最後の場所はここか」と言い残し、首を差し出し切られたそうです。
これを見ていた京の人々はさすがは一流の武士の子と褒め称えたそうです。
処刑された村重の一族らは、近隣の寺々の僧が引き取り弔いをします。
この残酷な処刑は、村重への見せしめもありますが、三木城の別所氏や石山本願寺の顕如へ対する警告でもあったものと思われます。
そして信長の狙い通り、13日の処刑以降、花隈城や尼崎城さらに石山本願寺に援軍として参陣していた毛利軍の乃美宗勝や荒木元清は毛利本国に引き上げてしまい、尼崎城にいた毛利軍の桂元将は石山本願寺に退去後、帰国を願い出るという始末。
本願寺の下間頼廉は桂元将に宛、帰国を思いとどまるよう書状を送ったそうです。このように本願寺勢や毛利軍は完全に動揺していました。
18日、信長は二条新邸の東宮のもとに参内し金銀・反物を献上。
19日、信長は雨の中、安土に帰国します。
この年、織田(津田)信澄の長男・昌澄が誕生。母は明智光秀の娘・玉。
丹羽長秀の三男で羽柴秀長や藤堂高虎の養子となる藤堂高吉や江戸幕府二代将軍となる家康の三男・徳川秀忠、羽柴秀吉の甥・秀保そして、明智光秀の重臣・斎藤利三の娘・福(後の春日局)らが誕生。