6月、信長は丹羽長秀や滝川一益ら数名の家臣に鷹を与えます。丹羽長秀に対しては、この件とは別ですが、先年(天正4年)与えた珠光茶碗を信長は召し上げ、代わりに長船長光作の銘刀“鉋切”(かんなぎり)を与えています。
6月13日、このような状況の中、播磨・三木城攻めの羽柴秀吉の陣中で名軍師として名高い竹中半兵衛重治が病没します。享年36歳。肺結核や肺炎など肺の病気だったといわれています。秀吉の勧めで一度は京へ赴き療養しますが、回復の見込みがないと感じた半兵衛は、「陣中に没する事こそ武士の本懐」と再び三木城攻めの陣に戻ったそうです。
22日、病没の知らせを受けた信長は、馬廻衆に加わっていた半兵衛の弟・竹中重隆(久作重矩)を播磨に派遣します。
ちなみに半兵衛の嫡子・重門は秀吉に仕え12歳で小牧の陣に参陣、関ヶ原の合戦では西軍から東軍に転じ、決戦当日は東軍先鋒に加わり活躍します。
7月3日、半兵衛に続き、荒木村重の有岡城攻めに加わっていた越前敦賀城主・武藤舜秀(きよひで)も病没します。
7月2日、有馬晴信の所領である肥前日野江(長崎県)の口之津港にイタリア人宣教師アレシャンドロ=ヴァリニャーノが入港・来日します。このときヴァリニャーノは巡察師として来日し、日本におけるキリスト教の布教状況と問題点をローマに報告する役目を帯びていました。
この時期すでに有馬晴信の父・義貞はすでにキリスト教に入信しており、ドン・アンデレという洗礼名も持っていました。義貞の弟・大村純忠は、日本にキリスト教が伝来した天文18(1549)年からわずか14年後の永禄6(1563)年に日本初のキリシタン大名になっており、このときのヴァリニャーノは大歓迎で迎えられたと思われます。
ヴァリニャーノは、この後、豊後(大分県)のキリシタン大名・大友宗麟にも会い、一年以上の月日をかけ九州各地を巡ります。この時、ヴァリニャーノは、後に信長の家臣になる現在のアフリカ・モザンビーク出身といわれる黒人男性を引き連れていました。
信長とこの黒人男性が出会うのは、一年半後の天正9(1581)年2月23日のことになります。黒人男性の身長は6尺2分(約182cm、ちなみに信長は166~169cm)で年齢は26・7歳だったそうで、当初奴隷的扱いをされていたそうですが、信長は、初めて見る黒人に大いに興味を示し、何か墨でも塗っているのではないかと考え、家臣に命じ体を何度も洗わせます。しかし、いくら洗っても体は褐色の肌のまま。信長はようやく納得します。
信長は、ヴァリニャーノからこの黒人男性を譲り受け、家臣として召抱えヤスケ(彌介)と名づけます。ヤスケは、今まで人間的扱いをされていなかったので、武士に取り立てられ大変感激したようです。
この後、常に信長のそば近くに仕え、本能寺の変の際も明智軍と勇敢に戦いますが、捕らえられてしまいます。しかし外国人ということで明智光秀に許され、その後はどうなったか不明です。
7月16日、徳川家康は、安土の信長のもとへ重臣・酒井忠次を使者として送り、馬を献上し、忠次自身も信長に馬を献上します。さらに同行した長篠城主・奥平信昌も馬を献上しています。この時の派遣目的は、家康の長男で信長の娘婿である岡崎城の徳川(松平)信康の謀反の噂に関する申し開きでした。詳細は後に触れたいと思います。
この月、奥羽地方の武将も相次ぎ信長への挨拶に訪れます。
7月18日、出羽大宝寺(山形県鶴岡市)の大宝寺義氏(『信長公記』では義興となっています)が鷹11羽、駿馬5頭を信長へ献上します。
当初、大宝寺氏は上杉謙信と結び、勢力拡大を図っていましたが、謙信が死去すると最上氏が台頭し始め、それに対抗するため中央の権力者・信長に接近。信長と誼を通じることにより最上氏との争いを有利に展開しようとします。
信長はこの時、義氏に『屋形号』(名門や功績のあった武家の当主に贈られる称号)を許可したようです。
25日には陸奥遠野(岩手県遠野市)の遠野孫次郎(阿曽沼広郷)が石田主計という鷹匠を通じ、白鷹を献上。信長はこの白鷹をかなり気に入ったようです。さらに出羽仙北(岩手県大曲市)の前田利信も鷹を献上してきます。
26日、信長は、堀秀政に石田主計と前田利信の接待を命じます。この時、陸奥津軽(青森県)の南部政直も上洛していたようで、三人は堀秀政に案内され完成したばかりの安土城天主閣を見物して回ります。
信長は、遠野孫次郎とその使者である石田主計、そして前田利信に衣服や毛皮・黄金などを贈ります。
すでに信長へ挨拶を済ませている、伊達氏や安東氏・田村氏なども含め東北の有力諸大名は次々と上洛し信長へ鷹や馬などを献上しています(ちなみに最上氏も翌天正8年に献上)。
この鷹を献上するという行為は桐野作人氏の『だれが信長を殺したのか』
によれば「服従や盟約」を意味し、当時の信長と東北諸大名の立場を考えれば、「信長への従属を意味するのではないか」と考えられているようです。
まず、信康の姓についてですが岡崎城主であったことから岡崎信康と呼ばれることがありますが、正式には松平信康ということになっています。徳川姓を名乗ったことはなかったと言われていますが、当時、家康はすでに徳川を名乗っているので、嫡男であった信康が岡崎または松平というのも不自然な気がします。管理人はやはり徳川信康であったと考えますので、ここでは徳川信康と表記させていただきます。
7月上旬(6下旬か?)、安土の信長の下へ家康の長男・徳川信康に嫁いだ娘・徳姫(五徳)からの書状が届きます。その内容を見た信長は、衝撃を受けます。それは12ヶ条からなる密書で、夫・信康および姑の築山殿(徳川家康の正室)が武田勝頼へ内通しているというものでした。
徳姫は、信長の長女(次女説も)で永禄2(1559)年10月誕生。信康に嫁いでからは徳姫または岡崎殿と呼ばれていたようです。
一方の信康は家康の長男として永禄2(1559)年3月に誕生。家康が浜松に移った後、岡崎城主となり岡崎三郎信康と名乗ったともいわれています。
二人は同年で、織田・徳川同盟(清洲同盟)成立の翌年、永禄6(1563)年、わずか5歳で婚約。永禄10(1567)年5月27日、9歳で結婚します。後に二人の娘を授かり仲が良かったようです。しかし、二人の結婚を快く思っていなかったのが信康の実母で家康の正室である築山殿でした。築山殿は今川義元の姪に当たり、今川家の重臣・関口刑部少輔の娘。叔父の義元を討った織田信長の娘と最愛の息子が結婚するのは当然、我慢ならなかったものと思われ、徳姫と築山殿の関係は悪かったようです。
天正7(1579)年6月初旬、仲が良いと思われていた信康と徳姫に夫婦喧嘩(よりもっと重大事か?)があったようで、6月5日、家康が浜松城から岡崎城まで足を運び仲裁したそうです(『家忠日記』)。
この後、徳姫は冒頭で触れた12ヶ条の密書を信長の元へ届けることになります。その内容の一部は、以下のようなものでした。
・「築山殿が私(徳姫)と夫・信康の仲を引き裂こうとしている」
・「女子しか産めないことを理由に武田家ゆかりの女性を信康の側室に迎え武田家への内通を勧めている」
・「武田勝頼からの手紙を見たが、信康へ武田家に味方するよう依頼しており、築山殿も信康の説得をするに違いない」
など、重大事が書かれていたようです。
7月上旬、信長は、真偽を確かめるべく、家康に説明を求めます。家康は、重臣・酒井忠次を信長のもとへ派遣します。
7月16日、安土の信長のもとへ徳川家康の使者・酒井忠次と長篠城主・奥平信昌が訪れ、前述のように馬を献上します。
信長は、早速、娘で信康の正室となっている五徳(徳姫)から送られた12ヶ条の密書について忠次に問いただします。忠次は12ヶ条のうち10ヶ条を否定できず、返答に窮します。
これにより信康の武田家内通の噂は真実と判断した信長は、家康に信康を厳罰に処すよう命じます。この時具体的に殺すよう命じたとも言われています。
この事件は、信長が嫡子・信忠より、信康が優秀であったため、後々脅威になるのを恐れ信康殺害を企てたという説もありますが、この時期、西に毛利・本願寺・東に上杉や武田が依然健在で、さらに荒木村重や別所長治の件も解決していない状況。このような謀略で徳川を敵に回す可能性のある危険な賭けに出るとは考えにくいように思います。
信康は勇猛でありながら日頃の行状が悪かったという話もあり、徳川家内部でも信康が家康の跡を継ぐことに危惧を抱く勢力もあったようです。
『信長公記』の原本である『安土日記』と家康の家臣松平家忠の『家忠日記』に似たような記事があり、信康が幽閉される直前、謀反を企てているとの噂が流れます。
8月3日、家康は、武装した兵を率い浜松から岡崎城へ向かい信康と対面。
4日、父子はなんらかを話し合い、信康は大浜に退去。
5日、松平家忠は岡崎に到着すると家康から大浜に近い西尾に兵を配備。その後三日間に渡り信康を監視します。
9日、信康は遠江に移されます。
10日、家康は、一族や家臣に信康と連絡することを一切禁じ、起請文を書かせ“信康派”の勢力拡大を事前に封じます。
家康の浜松派と信康の岡崎派の内部権力闘争が、信康事件の根幹にあったとの見方が近年有力視されているようです。
8月29日、家康は家臣に命じ、浜松の近く冨塚で正室・築山殿を殺害。
9月15日、遠江・二股城(静岡県天竜市)に幽閉していた、長男信康に切腹を命じます。信康は最後まで疑惑を否定しながら自刃して果てます。享年21歳。これにより徳川家分裂の危機は回避されることになります。
この信康の切腹に際し、介錯役を服部半蔵が担うことになりましたが、手が震え刀を取れなかったとも伝わります。そして家康自身、後に信康を死に追いやったことを後悔したとも言われています。