天正5(1577)年10月、松永久秀を滅ぼした織田軍はいよいよ西国への進出を本格的に進めることになります。
10月23日、羽柴秀吉は播磨(兵庫県南西部)へ向け出陣します。
当時の播磨は小豪族がひしめく状況にあり、その中で有力な勢力が小寺政職でした。小寺家中は親毛利派と親織田派に分かれ、当主の政職はどちらに付くか迷っていました。多数の者が毛利に付くことを主張する中、家臣の小寺孝高(後の黒田官兵衛・如水)は織田家に付く利を説き、小寺家は織田方に属することを決めます。官兵衛は居城・姫路城(当時は小規模の城)を秀吉に明け渡し織田家に忠誠を誓います。
秀吉配下には軍事参謀の竹中半兵衛重治がおり、官兵衛が加わったことにより、秀吉はのちに「両兵衛」または「二兵衛」と呼ばれる最高の軍師二人を召抱えることになります。ただし、半兵衛は信長の直臣と考えられ、秀吉の与力という立場。官兵衛もこの時点では織田家の配下という立場なので、正確には秀吉の家臣とは言えないようです。
既に触れたように播磨の諸勢力(赤松広秀や別所長治ら)の多くは早い時期から京の信長の下へ挨拶に出向いており、秀吉の播磨入りの頃にはほぼ大勢が決まっている状況でした。そのような状況と官兵衛の活躍もあり、播磨の諸勢力が次々と織田方への忠誠を誓い人質を差し出し、秀吉は一ヶ月足らずの間に播磨をほぼ勢力下に収めることになります。
出陣わずか五日後の秀吉から信長への書状では「播磨は11月10日頃までには決着が付くでしょう」と報告しています。
播磨を平定した秀吉軍の快進撃は止まらず、一気に山名氏の但馬(兵庫県北部)に攻め入り岩洲城を攻略。さらに山名氏の家臣・太田垣輝延が守る竹田城も攻略し、この地に砦を築きます。この砦には弟の羽柴秀長を入れ毛利軍へ備えます。
秀吉は更に播磨西部にも軍を進め備前・宇喜多氏に迫ります。
11月27日、羽柴秀吉は西播磨(兵庫県)の上月城攻めを開始します。
上月城は毛利輝元に従う備前(岡山県東部)の宇喜多直家の属城で城主は上月景貞。
この秀吉の中国遠征軍の先陣にはとある主従が悲願を胸に参戦していました。
その主従とは、尼子勝久とその家臣・山中鹿介幸盛。
永禄9(1566)年、当時の当主・尼子義久は月山富田城(島根県安来市)を毛利輝元の祖父・元就に攻められ降伏。一時は山陰地方8カ国を治めた名門尼子氏は滅亡していました。
永禄11(1568)年、信長が足利義昭を奉じ上洛を果たした頃、山中鹿介ら尼子家遺臣は同じく京・東福寺にいた尼子氏一族の僧を還俗させ勝久と名乗らせお家再興を目指すことにしました。
元亀3(1572)年頃から尼子勝久・山中鹿介主従は明智光秀の仲介のもと、信長の支援を受けるようになっていたようです。
その尼子勝久や山中鹿介らを率いた秀吉は自ら指揮を執りに上月城を攻めさせる一方、竹中半兵衛重治と小寺官兵衛孝高(後の黒田如水)に命じて福岡野の城(福原城)攻めを命じます。
この動きに対し毛利方の宇喜多直家は福原城を救援すべく出陣。竹中・小寺隊に後方から攻撃を仕掛けます。これを知った秀吉は上月城攻めを中断し、宇喜多勢に攻め掛これを撃破。宇喜多勢、数十人を討ち取ります。
秀吉はすぐさま引き返し再び上月城を包囲、援軍を絶たれた上月城は孤立します。
秀吉の攻撃を開始から七日目、城内に異変が起きます。城主・上月景貞が城兵によって殺害されます。城兵は、景貞の首を持参して、秀吉に降伏を願い出ます。秀吉はこの首をすぐさま信長のもとに送り届けますが、信長の命か秀吉の判断か不明ですが、上月城兵の降伏は受け入れられず、城内の女子供にいたるまでことごとく見せしめのため磔の刑に処せられます。
さらに福原城も陥落させますがこちらでも250余りの城兵が殺されます。
これにより播磨は秀吉により平定され、上月城には尼子・山中主従が入れられお家再興の足がかりをつかみます。
10月末、秀吉が中国へ向け出陣した頃、時を同じくして明智光秀は丹波に攻め入ります。これは第ニ次丹波攻めともいえるものでした。
ここで話は遡ってしまいますが、丹波の状況は複雑なので、整理のため記述したいと思います。
丹波の守護は細川氏でしたが、信長が足利義昭を奉じて上洛したころは既に萩野氏・芦田氏・波多野氏・内藤氏・宇津氏・須知氏などの国人衆が実権を握り、信長上洛前に中央で実権を握っていた三好氏に対抗する反三好同盟といえるような協力関係を築いていました。丹波衆は、足利将軍家と友好関係にある者が多かったため、信長上洛当初は、良好な関係でした。
元亀4(1573)年、信長が将軍・足利義昭を追放したことにより、大きく情勢が変わっていきます。まず、丹波で最大級の勢力を誇る黒井城の萩野(赤井)直正が反旗を翻します。これには甥の芦田五郎(赤井忠家)も同調したようです。
この状況に信長は、当初、細川藤孝を丹波に派遣し、懐柔を図ります。
天正3(1575)年6月、この外交努力も実らず、内藤・宇津氏も離反し、ついに信長は丹波攻めを決断し、明智光秀にその攻略を命じます。
光秀はすぐさま丹波攻めを開始しますが、この時、後(天正5年)に秀吉軍により攻略される但馬の竹田城を攻めていた萩野(赤井)直正は居城・黒井城に戻り光秀軍に備えます。
光秀は、北桑田郡の川勝氏や船井郡の小畠氏らの協力を得ながら丹波攻略を進めますが、同年の越前一向一揆攻めにも参陣を命ぜられるなど、丹波攻めに集中できない状況でした。
天正3(1575)年10月、このような状況にありながら、小規模の国人衆は屈服させたようで、丹波最大の難敵・黒井城の萩野直正を滅ぼせば丹波平定は成ったも同然という状況でした。光秀は八上城の波多野氏ら丹波の国人衆に命じ、黒井城を包囲します。
天正4(1576)年1月15日、黒井城を包囲して二ヶ月あまり、突如、萩野氏と並ぶ丹波の有力国人である波多野秀治が離反。足利義昭や本願寺・武田勝頼ら反信長勢力と手を結んでしまいます。光秀は包囲を解き、退却を余儀なくされます。
同年2月下旬、再度丹波へ攻め入りますがこれは丹波衆へのけん制のみで、すぐに退却したようです。信長は丹波よりも石山本願寺攻めを優先させ光秀にも出陣を命じます。
天正4(1576)年6月、光秀は、一年に渡り休む間もなく各地に転戦した疲れが出たのか遂に病に臥せり、丹波攻めは天正5(1577)年10月まで一時中断されることになります。
天正5(1577)年10月、信貴山城の松永久秀討伐を終えた明智光秀は、丹波攻めを再開することになります。
10月下旬、光秀は細川藤孝と共に丹波へ出陣し、29日には籾井城(兵庫県篠山市)を攻めます。籾井城はすぐに攻略されたようで、さらに明智軍は守護代内藤氏の籠もる丹波亀山城(京都府亀岡市)迫ります。明智軍は、丹波亀山城も短期間で攻略します。
12月、光秀は本拠・坂本に帰国します。
この時の丹波攻めについては。『細川家記』や『兼見卿記』などには書かれていますが、なぜか『信長公記』には触れられていません。著者・太田牛一の関心事は同時期に開始された中国・毛利氏攻めのほうにあったのかもしれません?
翌天正6年、光秀は亀山城を修築し、丹波攻略の重要拠点としますが、この後、有力国人衆である赤井氏や波多野氏さらに他の国人衆の抵抗に苦しめられ、そのうえ、他の戦線への援軍や荒木村重の謀反なども重なり、丹波平定までは足かけ4年という長い年月を要することになります。
11月13日、秀吉や光秀がそれぞれ播磨・丹波方面で奮戦している頃、信長は上洛し、二条新邸に入ります。このときの上洛の目的は、官位拝領のため参内するためでした。
11月16日、朝廷はまず信長の位階を正三位から従二位に叙します。室町幕府の管領職でも正三位どまりだったという話なので、異例の昇級だったのかもしれません。
18日、信長は供の者を連れ参内します。このとき信長一行は、若き日の“うつけ”を思わせるような装束で現れます。
家臣らは思い思いの服装をし、変わった頭巾や金銀に塗った杖を持ったりしていました。
一番手の百人ほどの弓衆は信長が与えた虎の皮のウツボ(矢入れの道具)を背負い、二番手の年寄衆の中には鷹を据えさせ、信長自身も鷹狩り姿でお気に入りの鷹を据え、小姓衆や馬廻り衆に警護されながら御所に向かいます。京の町衆は美しく・面白く着飾った信長一行を見物し驚嘆したそうです。
信長はそのまま馬廻衆らを引き連れ参内し、お気に入りの鷹を正親町天皇にお披露目し、簡単に挨拶を済ませると鷹狩りに向かってしまいます。
20日、朝廷は位階を従二位に叙したのに続き、信長を右大臣に任命します。右大臣は朝廷の最高機関である太政官の職のひとつで太政大臣・左大臣に次ぐ職でした。これ以降信長は右府様と呼ばれることになります。
この年、毛利勝永や小早川秀秋の兄・木下延俊が誕生。