【信長史】1577① 雑賀攻め

■三緘衆と根来寺の寝返り

天正5(1577)年、信長44歳。

1月14日、信長は上洛し、近隣諸国の大名の挨拶を受けます。訪れたのは播磨の浦上宗景や別所長治、若狭の武田元明らでした。

 

25日、政務を終え安土に帰国。


信長に従う者が増える一方、敵対する者も増えていきます。毛利家と石山本願寺が関係を強める中、この頃になると越後の上杉謙信も石山本願寺に支援物資を送るようになっていました。日本海を渡り毛利を経由して支援したのでしょうか?
木津川河口合戦後、毛利氏は頻繁に石山本願寺に物資を供給し、佐久間信盛を主将とした織田軍による包囲作戦は事実上無意味なものになっていました。


信長は、この状況を打破するため“外堀”から埋めていく作戦を取ります。まず目に付けたのが、本願寺勢の主力である紀州の雑賀衆でした。雑賀の鉄砲衆は事あるごとに本願寺に味方し、織田軍を苦しめていました。その雑賀衆の切り崩しを狙います。いつごろから接触していたかは不明(前年5月以降?)ですがその成果がついに出ます。


2月2日、雑賀の三緘(みからみ)衆と根来寺の杉之坊が信長に味方することを誓います。信長はこの機を逃さず「13日に雑賀へ出陣」するよう諸国に命じます。尚、三緘衆とは雑賀五郷(紀ノ川左岸の中郷・宮郷・南郷と河口部の雑賀荘、右岸の十ヶ郷(じっかごう))の五緘のうち左岸の衆のことです。また、杉之坊とは根来寺の多数ある子院(僧坊)のひとつです。ちなみに他に泉識坊や岩室坊などがあります。

 

9日、信長は再び上洛し、妙覚寺に宿泊。同日、信忠は尾張・美濃の軍勢を引連れ出陣。


11日、信忠軍が守山に着陣。
伊勢の信長の次男・北畠信雄や三男・神戸信孝・弟の長野信良(後の信包)らも出陣。領国各地から続々と兵が集まり、さらに織田家に臣従を誓った越前・若狭・丹後・丹波・播磨の諸大名・諸勢力の軍勢も集結します。総勢10万ともいわれる大軍勢でした。


13日、信長は京を出発。しかし、この先いつもの信長らしい電撃的な行動が見られません。


14日、雨のため近くの八幡に駐留したまま。その風雨の中、信忠らの軍勢は進軍し、信長に合流したようです。


15日、信長はようやく出発。

 

16日、和泉に陣を据えます。依然、紀州に攻め入ろうとしません。この時の信長は慎重にことを進めます。今回の相手が本願寺の主力である雑賀の鉄砲衆だったためかもしれません。


17日、織田家に寝返った根来寺の杉之坊が信長の下を訪れあらためて恭順の意を表します。ここでようやく信長は安心したのか雑賀に向けて動き出します。

 

 

■織田鉄砲隊 vs 雑賀鉄砲隊

2月18日、信長は佐野(大阪府泉佐野市)に移動。

 

22日、さらに志立(泉南市)に進軍。ここで信長は10万の軍勢(5~15万など諸説あり)を内陸から攻め込む部隊と海岸沿いから攻め込む部隊の二手に分けます。

 

対する雑賀衆はわずかに2千ともいわれていますが、はっきりした記録が無く多くても数千人で、1万には満たなかったようです。


内陸の部隊は、雑賀衆から寝返った根来寺の杉之坊と三緘衆が案内役となり進軍。それに続くのは佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重・別所長治・別所重宗・堀秀政。


これを迎え撃つ雑賀衆は小雑賀川の川岸に柵を立て防戦。ここで若い堀秀政(この時25才)が功名をあせったのか痛恨の勇み足の攻撃を仕掛けてしまいます。
堀隊は川を渡り一気に対岸まで押し寄せます。しかし、岸が高く馬も上陸できない状況に雑賀衆の鉄砲隊が攻撃を仕掛けてきます。堀隊は、なすすべなく撤退を余儀なくされますが、この攻撃により堀の主だった家臣数名が討ち死にしてしまいます。この戦況を見てたの織田軍は無理な攻撃を控え川を挟んでにらみ合いの状況になります。

 

一方、海岸沿いの部隊は、淡輪(大阪府泉南郡)から一本道の難所にさしかかり、滝川一益や明智光秀・丹羽長秀・細川藤孝・筒井順慶らがこの難所から誰が攻め入るかをくじ引きで決めます。残念ながら『信長公記』にはこの結果は記されていませんが、光秀と長秀以外の部隊だったようです。


三方に分かれて進軍した海岸部隊の後をさらに信忠や信雄・信孝ら織田の一門衆が続きます。雑賀衆も応戦しますが、多勢に無勢。織田軍の猛攻を支えきれず、雑賀方の中野城へ攻め寄せ包囲。


28日、信長と信忠も淡輪まで進軍。中野の城兵は織田軍主力の到着に、あきらめ降伏します。中野城に信忠が入城します。


3月1日、信長は一益や光秀・長秀ら海岸沿いの部隊に命じ、雑賀衆の中心人物である鈴木孫一の居城を攻撃させます。城の周りに櫓を立て昼夜攻撃を続けます。この時織田軍は雑賀衆の鉄砲による攻撃を防ぐため竹を束ねた防具(盾のようなもの?)をつくり城に近づき攻撃を加えました。
しかし、さすがに雑賀衆の首領とも言える孫一。簡単には屈服しません。織田軍の包囲は長引くことになります。 

 

 

■雑賀衆の降伏

3月、10万もの兵を動員しながら雑賀衆を殲滅できない信長は危機感を抱きます。京では織田軍苦戦の噂が流れ、周囲には毛利・本願寺などの敵対勢力を抱える状況で10万の軍勢を1ヶ月近くも同じ場所に滞在させるのは危険なことでした。
ここで信長は雑賀衆の降伏を条件に兵を引くことを決意します。信長としては、伊勢長島や越前の一向一揆のように壊滅させること目論んでいたと思われますがしかたない決断でした。


3月15日、信長は雑賀の指導者である鈴木孫一・土橋若大夫・岡崎三郎大夫・松田源三大夫・宮本兵部大夫・嶋本左衛門大夫・粟村三郎大夫の七人に対し、「本来なら成敗するところだが降伏し忠節を誓うなら許す」旨の朱印状をしたためます。
織田の大軍勢を相手に勝ち目のない雑賀衆も石山本願寺攻めに協力することを誓い降伏します。しかし、この雑賀攻めは事実上、織田軍の敗北に近い和睦とも受け取れる結末でした。そして、雑賀衆の降伏は一時的なもので、この後再び挙兵することになります。 


21日、信長は陣を解き香庄(岸和田市)まで兵を引くとともに、佐野郷(泉佐野市)に砦を築くよう命じます。この佐野砦には、杉之坊と織田信張(清洲三奉行藤左衛門家系)が駐留します。


27日、途中、京などへ立ち寄りながら信長は安土に帰国します。