天正4(1576)年5月、籠城を余儀なくされた本願寺の法主顕如は窮地に追い込まれます。一説には4万近い門徒が籠城していたといわれています。
顕如はこの籠城後間もなく加賀の門徒と越後の上杉謙信の和睦を成立させ信長を牽制します。信長と謙信は表向き友好関係を保っていましたが織田家が加賀南部二郡を支配したことにより西に勢力を伸ばす謙信とは一触即発の危機的関係になっていました。
7月13日、そのような状況の中、ついに中国地方の毛利水軍が動き出します。
15日、石山本願寺に兵糧を運び込むため大船800隻もの大船団が木津川河口に姿を現します。水軍を率いたのは毛利氏配下の能島某・来島通総・児玉就英・粟屋大夫・及美宗勝。
これを阻止するため織田軍は真鍋七五三兵衛・沼野伝内・沼野伊賀・宮崎鎌大夫らが大船2~3隻を含む300の水軍を率い毛利水軍に対抗します。
一方、陸上では時を同じくして一揆勢が出撃してきます。即座に天王寺砦から佐久間信盛が打って出ます。戦いは数時間に及びました。
海上でも織田水軍と毛利水軍の戦いが繰り広げられます。しかし、戦いは一方的な展開になります。海上戦を得意とする毛利水軍は秘密兵器ともいえる“焙烙火矢”といわれる現代でいう手榴弾のようなものを作り、それを織田軍の船を包囲しては投げ込み炎上させるという作戦を展開します。
海上戦の不得手な織田水軍の船は次々と海中に沈み、真鍋・沼野伝内・沼野伊賀・宮崎鎌大夫など主だった水軍の将が討ち死にしてしまいます。
織田水軍を壊滅させた毛利水軍は難なく本願寺への兵糧の運び入れを成功させ引き上げていきます。この戦いで毛利水軍は一隻も失わなかったといわれています。
信長はあらたに保田知宗・塩井因幡守・伊地知文大夫・宮崎二郎七に海上警備を命じますが、当然ながら毛利水軍への対抗策を早急に講ずる必要に迫られまられることになりました。
5月の木津川河口海戦の大敗以降、この年の信長は不気味な沈黙を続けます。
この沈黙の間、信長はかつて足利義昭と対立した折、岐阜から京へ一気に兵を輸送するために琵琶湖で活躍した大船の解体し、その材料で小型の早船十隻を作らせます。木津川河口の大敗から水軍の強化を目指したのかもしれません。
11月4日、信長は上洛。二条・妙覚寺に宿泊。この時の上洛の目的は、官位授受の儀式を行うためでした。
12日、信長の下に播磨(兵庫県)の赤松広秀・別所長治・別所重宗・浦上宗景・浦上小次郎らが挨拶のため訪れます。この時、信長に恭順を誓ったものと思われます。
21日、参内。朝廷より内大臣に任命されます。その礼として信長は朝廷に黄金二百枚ほか沈香や反物を献上。摂家・清華家などに所領を進呈します。逆に正親町天皇からは衣服を賜ります。
儀式が終わると信長は足早に京を出ます。向かったのは近江・石山寺。この地で二日間、鷹狩りを楽しみます。
25日、信長は安土に到着。同日、伊勢では畠氏の養子となっている次男・信雄が北畠一族の粛清を断行していますが、詳細につきましては次項で触れたいと思います。
12月10日、信長は今度は三河吉良に向け出発。途中、佐和山・岐阜・清洲に滞在。
22日三河吉良に到着。『信長公記』では触れていませんが、当然この時、徳川家康が信長を出迎え祝宴などが催されたものと思われます。信長は三日間滞在し、この間にも鷹狩りをし、多くの鳥を獲ったそうです。
26日、清洲に戻り、晦日には岐阜に入り年を越します。
余談ですが、後に徳川家康がこの内大臣に任命され「内府」と呼ばれるのは有名ですが、信長の次男・信雄や豊臣秀吉・秀頼も任命されています。
11月、伊勢・北畠氏が完全に織田家に乗っ取られることになります。
禄12(1569)年、北畠氏は信長の伊勢攻めの際、和睦の条件として信長の次男・信雄(当時茶筅丸?)を具教の子で当時既に家督を継いでいた具房の養嗣子として受け入れていました。さらに信雄と具教の娘・千代が結婚し織田家と北畠家の関係は表面上は良好を保たれていました。
しかし、具教・具房父子は和睦が成ってからも復権を画策。武田家などと通じ、それが信長に知られるにいたり、天正3(1575)年ついに家督を完全に信雄に譲ることになります。当然ながら信長の怒りはこれだけでは収まりませんでした。
11月25日、信長は具教殺害を信雄に命じます。信雄は北畠の旧臣に具教やその一族の長野氏らを襲撃させ殺害します。具教は鹿島新当流の開祖である剣豪・塚原卜伝に剣術の指南を受け奥儀「一の太刀」を授けられたほどの剣の使い手。信雄派は襲撃の際、19人が具教の手により斬殺され100人が負傷したとも伝わり剣豪・具教は最後の意地を見せ討ち死に。
信雄の義父に当たる具教の子・具房は滝川一益に預けられ幽閉。四年後の天正8(1580)年死去します。ここに南北朝時代から続く村上源氏の血を引く伊勢の名門・北畠氏の嫡流は滅びますが、この時点では依然、信雄が北畠氏を名乗っており、信雄と千代の間には嫡子・秀雄がいたので血は受け継がれていました。
後の話になりますが、北畠姓がなくなるのは、本能寺の変後、信雄が織田姓に復姓し織田信雄と名乗った時の事となります。信雄の嫡男・秀雄は秀吉の時代、越前大野五万石を領していましたが、関ヶ原の合戦で西軍に属し、改易され断絶してしまいました。ここに北畠氏嫡流の血は完全に途絶えます。
ちなみに信雄は具教の弟で早い時期に織田家についた木造具政の娘も側室にしており、後に上野小幡藩の初代藩主となる信良をもうけています。
この年、信長の七男?信高(生年推定)や丹羽長秀の次男・長正らが誕生。
さらに時期は不明ですが、正月ごろ?柴田勝家が越前で一向一揆の蜂起を防ぐため刀狩りを実施しています。