天正4(1576)年、信長43歳。
1月中旬、近江・安土山(滋賀県蒲生郡安土町:近江八幡市)に城を築き始めます。
安土は岐阜と京の中間に位置し、西に琵琶湖があり船を使えば京に近く、中山道が付近を通り交通の要衝でした。安土山の周りは現在は埋め立てられ多くが田畑になっていますが、当時は南方は池や沼そして堀も掘られ、周りを琵琶湖の水が囲んでおり天然の堀になっていました。
信長は安土城の総普請奉行に丹羽長秀を任命。設計は番匠(大工)の岡部又右衛門以言・以俊父子が担当します。領国内の武士はもちろん三河・徳川家の武士、京や奈良・堺の大工や職人を総動員し、築城作業に当たらせます。
安土築城にあたり信長はかつて足利義昭のために京の勘解由小路に築いた二条城を解体して安土城の建材に利用し、信長が天下人であることをあらためて強調します。
さらに石垣の構築に当たっては西尾吉次・小沢六郎三郎・吉田平内・大西某を石の担当奉行に任命します。各地より石をかき集めますが、足りず石仏まで利用しました。さらに発掘調査では安土山から古墳時代の石棺が発見されており、築城時の造成工事の際、破壊された古墳の石室に使用されていた石も石垣や石段に転用されている可能性が高いようです。
なかでも一番注目されたのが、『蛇石』といわれる巨石でした。津田坊(信澄?)が安土山の麓までなんとか運び込みはしたものの山へ引き上げることが出来ず、羽柴秀吉・丹羽長秀・滝川一益が1万人(4~5千人とも)を指揮し三日かかって天主の敷地まで引き上げさせます。ルイス=フロイスの『日本史』によれば、途中この石が滑り落ち150人が下敷きになり死亡したとの話もあります。
残念なことに平成元年から20年かけて行われた発掘調査では、この『蛇石』のような巨大な石は発見されませんでした。ただ、伝二の丸に直径2メートル位だったでしょうか?コケに覆われた丸いテーブル状の石が存在します。これが『蛇石』ともいわれていますが、そうだとすると1万人がかりで三日もかけて引き上げるような巨石とはいえない気がします。埋まっている部分がどのくらいあるのか不明ですが・・・。天主の地中深くに埋められているのでは?との考えもあるようです。
2月23日、信長は早くも安土城に移り住んでいますが、もちろん天主や本丸御殿などは完成していなかったはずなので、安土山のどこかに仮館を急造したものと思われます。
安土城天主が完成するのは3年後の天正7(1579)年。信長はこの年、5月11日(信長の誕生日ともいわれる日)に天主に移ります。
しかし、完成からわずか3年の天正10(1582)年6月、何者かの手によって放火され安土城は焼失。次男・信雄説や明智秀満説、城下町の火災が飛び火した説などいろいろありますが真相は不明。信長の天下布武の象徴・安土城はその姿を消します。ただ、この時焼失したのは、天主や主要建物だけで、その後も一時、織田信雄そして信長の嫡孫・三法師秀信が安土城に入城しています。
天正13(1585)年、安土城の近く近江八幡に羽柴秀次(秀吉の甥)が城を築き城下町を近江八幡に移したことにより安土城は廃城となります。信長時代の建物として現存しているのは摠見寺跡の三重塔と仁王門(ともに重要文化財)のみとなりました。
2月、紀州由良(和歌山県日高郡)の興国寺にいた“将軍”足利義昭が突如毛利氏の領国である備後・鞆の浦(とものうら)に移ります。畿内における信長の勢力拡大に身の危険を感じて移動したと思われますが、この時、毛利氏は信長と表立って対立する事を恐れてか、義昭の備後入りをやめさせようとしたそうです。
前年天正3年10月に本願寺と信長は和睦しましたが、当然、本願寺の法主・顕如は一時的なものと考え、この休戦中に孤立した状況を打開する策を練っていました。そして、信長に対抗できる勢力である毛利氏や上杉氏・武田氏等と連携強化を目指します。天正3年11月には毛利輝元の叔父・吉川元春に淡路島への出兵・駐屯を要請しています。
そしてこのあらたな“信長包囲網”形成に暗躍したのが、信長打倒に燃える“将軍”足利義昭でした。
義昭は、紀州にいたときから毛利氏に対し本願寺救援を要請していましたが、備後・鞆の浦に移り住むとさらに強硬に“反信長陣営への参加”と“幕府再興”を迫ったようです。毛利氏も本願寺が滅亡すれば次なる標的が自分たちに向けられることは必至の状況であり、名門・毛利氏は信長の軍門に降ることなく打倒信長の道を選択します。
尚、この鞆という場所は、足利家に由緒のある場所らしく、義昭が最初に入った小松寺は足利初代将軍・尊氏が再起をかけて京へ向かう途中兵を休めた場所で、さらに10代将軍・義稙が中国地方に逃れた際も京へ戻る途中この鞆に立ち寄ったそうです。
義昭はこの鞆の浦の地に後に“鞆幕府”とも呼ばれるような小幕府を開き御所を構え、毛利輝元を副将軍格に据え、再び信長との対立姿勢を強めていきます。
余談ですが、後年(天正7年)、毛利輝元の叔父・小早川隆景は義昭が鞆に来たことを「思いがけず将軍が鞆に御座を移されたが、これにより毛利元就や隆元の名を知らないような遠国の大名からも便りが届くようになった。これは毛利家の面目であり、当主・輝元にとって、これ以上名誉なことはない」と記しているそうです。
4月、安土ではいよいよかつて無いような様式の天主に着工。京都では村井貞勝を奉行に任じ、関白二条晴良の屋敷跡地に信長の京での宿所となる二条新邸普請を命じます。
そのような状況下、信長は再び本願寺を攻めることを決断します。本願寺は和睦直後から防御を固め毛利輝元や足利義昭と頻繁に連絡を取り、さらに義昭が毛利氏の領国に移り住み毛利氏が織田家との対決姿勢を鮮明にしていたため、これ以上放置することが出来なくなったためでした。
4月14日、荒木村重・細川藤孝・明智光秀・原田(塙)直政の四将に本願寺攻めを命じます。村重は尼崎から海を渡り大坂の北、三ヶ所に砦を築きます。藤孝・光秀隊は大坂の東南、森口と森河内に砦を築き、直政は本願寺方の楼岸と木津を占拠し海路を封鎖するために天王寺に砦を築きます。
天王寺砦には佐久間信盛の子・信栄と光秀以下近江衆が入り守備を固め、猪子高就と大津長治も検使として派遣されてきます。
5月3日早朝、準備の整った織田軍はついに本格的に本願寺攻めを開始します。先陣はかつて本願寺方に属していた三好康長以下根来・和泉衆。第二陣には原田直政以下大和・山城衆。
三好・原田両軍は木津に攻め寄せますが思いもよらない本願寺方の反撃にあいます。本願寺勢は一万もの軍勢に数千挺の鉄砲隊を率いらせ、織田軍を逆に包囲し猛攻を加えます。この猛攻撃により三好隊が総崩れとなり、原田隊は何とか支えようと奮戦するも抗しきれず、直政とその一族と見られる塙喜三郎・小七郎そして蓑浦無右衛門・丹羽小四郎らが討ち死にします。
本願寺勢は勢いに乗り一気に天王寺砦まで攻め寄せます。天王寺砦は、かつてあった砦を大急処置的に補修した程度の作りだったらしく、本願寺の大軍を相手に長期間耐えることは不可能で砦に籠る光秀や佐久間父子らはたちまち危機に陥ります。
この危機的状況は、京にいた信長にすぐに伝わります。ここで再び桶狭間合戦や本國寺襲撃事件の時のような信長の電光石火の出陣劇が繰り広げられます。この時、信長は湯帷子(ゆかたびら・麻の単)姿で出陣。供する者はわずかに百騎ほどでした。
5月5日、湯帷子姿でわずかな供を引き連れただけで若江に着陣した信長は戦況を分析しつつ、後続軍の到着を待ちます。しかし、急な出陣であったため足軽などの雑兵の準備が間に合わず主だった将兵のみしか揃っていない状況でした。信長の下には、「天王寺砦は三・四日支えられるかどうか・・」そのような情報が次々と届けられていました。状況は急を要していました。
6日、この日になっても依然、兵力は3000しか揃いませんでした。
7日、信長はこの3000の兵で出陣することを決断します。対する本願寺勢はこの時、兵力1万5000近くに膨らんでいました。圧倒的不利な状況ではあるものの「天王寺砦に籠もる者を攻め殺させてしまったら世間の笑いの種になる」との思いからの決断でした。
信長はまず軍勢を三段に配備します。先陣、佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝以下若江衆。第二陣、滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・伊賀定治。第三陣、後備えに信長以下馬廻り衆。
この時、荒木村重にも先陣を命じますが、村重は「木津方面を防御しましょう」と言って先陣を断ったそうです。謀反を起こすのは、この二年半後なので、この時点で本願寺とつながっていたとは思えませんが・・・?
編成を終えると住吉方面から攻撃を開始します。信長は、攻撃が始まると先陣の足軽衆と入り混じり指揮を取り始めます。本願寺勢は数千の鉄砲を撃ちかけ防戦します。そんな中、信長は足に銃弾を受け軽傷を負いますが、退くことなく指揮を執ります。そのような状況だった為か、織田軍は兵力で劣るものの猛攻をつづけ本願寺勢を切り崩します。
本願寺勢がひるんだ隙を突き、天王寺砦に籠もっていた軍勢と合流、それでも本願寺勢より兵力が劣る状況でした。このような状況で家臣たちから「これ以上の合戦は控えた方がいい」と言う意見が多数を占める中、信長は「敵の間近まで攻めることが出来たのは天の与えた好機」と言って、攻撃の継続を指示。本願寺勢を敵城(大坂・石山本願寺)まで追い詰め、2700余りの首級を上げます。
本願寺勢はたまらず城に籠ります。織田軍は周囲、十ヶ所に砦を築きます。そして、天王寺砦に宿老・佐久間信盛・信栄父子を本願寺攻めの大将として入れ、配下に松永久秀・久通父子や池田秀雄・水野直盛らを付けます。さらに海上の警備に真鍋七五三兵衛・沼野伝内を配置します。ここに大坂方面軍的な部隊が誕生します。そして本願寺勢はこの日から天正8(1580)年8月、講和・開城するまでの4年もの長きにわたり籠城することになります。
6月5日、采配を終えた信長は帰国の途につきます。