元亀元(1570)年、信長37歳。
7月上旬、信長は、京にのぼりの将軍・足利義昭に戦勝を報告し岐阜に帰国します。
7月21日、三好三人衆が野田・福島(大阪市福島区)で挙兵します。この時、三好三人衆は管領細川家の嫡流・細川六郎(信良・昭元)を大将に担ぎ、1万3000もの軍勢を率いていました。この軍勢には、三好康長・篠原長房・十河存保・三好政勝・香西越後守らが従い、さらに斎藤龍興やその家臣・長井道利そして雑賀衆の鈴木孫一なども加わっていました。
さらに問題なのが、三好三人衆の軍が陣を構えた野田・福島の地。この地域は、まだ表立って信長に敵対行動を取っていなかった本願寺が影響力をもつ地域でした。すでに三好家と本願寺の間には密約は出来ていたものと思われます。
この状況を義昭はすぐさま信長にしらせ、さらに義昭はこれに対抗するべく、畿内の諸将に三好討伐を呼びかけます。信長に降っていた三好義継や畠山高政は出陣しますが、三好軍の勢いの前に手も足も出ない状態で、さらに松永久秀も領国大和の国衆(筒井氏や箸尾氏ら)が三好軍の挙兵に合わせるように不穏な動きを見せたため動けずにいました。
8月20日、信長はようやく出陣します。三好軍挙兵からすでに約1ヵ月近くの時がすぎていました。もちろん信長はただ出陣が遅れたわけではなく、この間に三好軍や浅井・朝倉の動向の把握、さらに三好軍の切り崩しのための調略を行っており、その結果、三好政勝・香西越後守が信長方に寝返ります。
26日、信長は天王寺に陣を構えます。この時、約4万の軍勢を従えていたようです。信長の到着により、戦況は一気に織田方優位になります。
30日、信長の要請で、将軍・義昭も2000の兵を率いて出陣します。
三好軍は野田・福島両砦に立てこもり籠城戦の構えを見せますが、圧倒的な織田軍の前に三好軍は和睦を申し入れてきます。しかし、信長は落城目前のこの申し入れを聞き入れず一気に三好三人衆を滅ぼそうと考えます。
この状況に、危機感を覚えた人物がいました。本願寺の法主・顕如です。野田・福島が落ちれば次は石山本願寺が狙われるのでは・・・
9月12日(13日?)夜、突如、本願寺の早鐘が打ち鳴らされます。この早鐘は摂津や河内の寺内町・大和(奈良)・紀州(和歌山)まで次々と伝播されました。この早鐘を聞いた本願寺門徒が続々と摂津(大阪市中央区)の石山本願寺の門主・顕如光佐のもとに集結してきます。
織田方の鉄砲衆として参戦していた、紀州(和歌山県)の根来・雑賀・湯川の門徒もこの早鐘を聞き本願寺に駆けつけます。さらに顕如は近江(滋賀県)の門徒にも決起を呼びかける檄文を送ります。
織田方の諸将が何事かと騒然とする中、織田方の桜岸と川口の両砦に本願寺勢が鉄砲を撃ちかけます。ついに本願寺が蜂起。反信長の意思を鮮明にします。
三好軍の立てこもる野田・福島両砦が陥落間近に迫る中、次は本願寺が退去を迫られるという噂が飛び交ったようですが、それよりも信長上洛からこの日までのいきさつが本願寺を決起させたのかもしれません。
この日までのいきさつとは、信長は上洛直後の永禄11(1568)年10月、本願寺に矢銭(軍資金)をとして5000貫を要求します。本願寺はすぐにこれに応じます。ちなみに商業都市・堺には2万貫を要求。堺の商人組織・会合衆(えごうしゅう)は、これを拒絶。一時三好三人衆と組み、信長に敵対します。信長は本願寺の寺内町という、特権を得ている独立宗教都市の解体を目指し、その後もいろいろと圧力をかけていたようです。
顕如としては三好軍が壊滅すれば単独で織田軍に対抗しなくてはいけない状況に陥ることになり、それを避けるためにも、三好軍が壊滅する前に決起するしかないという思いがあったのかもしれません。
信長は本願寺の決起を予期していたのか、単なる一揆と見たのか、さほど慌てることもなく冷静に采配を振るいます。
14日、本願寺勢は、本格的に攻勢に出ます。信長の馬廻衆が守る天満ガ森を襲撃。佐々成政や前田利家らがこれに応戦。成政が手傷を負うなどしたものの何とかこれを撃退<します。
16日、本願寺勢が、信長の予想以上に多かったためか、信長は本願寺と和睦交渉を始めます。数回にわたり交渉を行うも決裂します。
同日、近江ではさらに信長の“想定外”の出来事が起きていました。それは浅井・朝倉の再びの挙兵。
9月16日、本願寺との和睦交渉が決裂したこの日、近江では、浅井・朝倉連合軍が突如、信長の勢力下にある琵琶湖・南部の坂本に侵攻してきます。この地を守備していたのは、信長の弟・信治と森可成(乱丸の父)以下、3000の兵でした。対する浅井・朝倉連合軍は3万。これには本願寺の一向衆も含まれていたと思われます。この軍勢が琵琶湖の西岸を一気に南下し、京に迫る勢いでした。
19日、森可成は1000の兵を率いて果敢に出撃します。虚を突かれた浅井・朝倉軍は緒戦のこの戦いに敗れ退却を余儀なくされます。
20日、体勢を立て直した浅井・朝倉軍は再び坂本に押し寄せてきます。多勢に無勢、浅井・朝倉軍の猛攻の前に信長の弟・信治、森可成を含む数百人の織田軍の兵が討ち死にします。
浅井・朝倉軍はさらに南下し宇佐山城に迫ります。宇佐山城には可成の与力・武藤五郎右衛門と肥田彦左衛門らが入り応戦します。城兵の堅い守りにより苦戦を強いられた浅井・朝倉軍は城攻めをあきらめ京を目指します。京に入ると山科・醍醐の町を焼き払います。
22日、浅井・朝倉の挙兵により弟・信治や森可成が討ち死にした知らせを受けた信長は、この窮地にも冷静でした。まず、先発隊として明智光秀と柴田勝家に京・二条御所の守備を命じ京へ向け出発させます。ただし、『信長公記』では、勝家は退却時の殿軍を務めたとなっているので実際京に向かったかは不明です。
23日、三好軍の籠もる野田・福島の両砦の包囲を解くと全軍を天満森(大阪市北区)に集結させ、その日の夜には信長も義昭も京に到着するという早業を見せます。信長の予想以上に早い帰京に浅井・朝倉軍は驚き近江まで兵を引きます。
24日、信長は早くも京を出発し一気に坂本まで兵を進めます。浅井・朝倉軍は信長のこのすばやい対応に動揺し比叡山に逃げ込みます。
信長は比叡山延暦寺の僧を呼び寄せ「信長に味方すれば織田領にある延暦寺の寺領の返還」を約束、「もし出家の道理で一方に味方することが出来ないなら浅井・朝倉にも味方しないよう」にと交渉します。さらにこれを朱印状にしたため稲葉一鉄に手渡し延暦寺に向わせます。そのとき付け加えて、“これに従わねば全山焼き討ち”にするという強硬な姿勢も示します。しかし、延暦寺側はこの提案に何も反応しませんでした。
これは信長に敵対することを意味し、説得をあきらめた信長は比叡山の麓を包囲し
10月20日、浅井・朝倉軍が陣を張る比叡山を囲んで約一ヵ月。しびれを切らせた信長は菅屋長頼を使者として朝倉方に送ります。そして、「いつまでもにらみ合っていても仕方がないので、一戦を交え決着を着けよう!」と伝えます。
数日後、朝倉からの返事は意外なものでした。その内容は、決着を着けるどころか和議の申し入れでした。信長はなんとしても決着を着けたかったようでこれを拒絶します。
結局、再びこう着状態になりこの後二ヶ月に渡り織田軍と浅井・朝倉軍はにらみ合いを続けることになります。この一連の対陣を「志賀の陣」と呼びます。
織田軍の主力が比叡山に釘づけになっている頃、野田・福島の包囲を解かれていた三好三人衆の軍勢は京へ攻め入る姿勢を見せますが、京は織田方に降っている三好義継や和田惟政らが守りを固めていたためなんとか無事でした。
そんな中、南近江で再び六角義賢父子が挙兵します。しかし、たいした兵力もなくこちらも織田軍とにらみ合いのような状態になります。
次に現れたのが近江の本願寺門徒の一向一揆でしたが、農民の寄せ集めで組織がしっかりしていなかったため、磯野員昌が籠る佐和山城を包囲していた木下藤吉郎と丹羽長秀らにより鎮圧されます。信長の苦境に秀吉・長秀軍は一部の守備兵を残して、信長本陣に駆けつけます。援軍の到着に織田軍の士気は高まりましたが、そんな矢先信長のもとに悲報が届きます。
11月中旬、尾張の小木江城には信長の弟・信興が居ました。本願寺顕如は、近江で苦戦する信長の状況を知り、伊勢長島の門徒に決起を促します。蜂起した門徒は、信興の守る小木江城を攻めます。連日、次々と攻め寄せる一揆勢は、ついに城内に乱入します。
11月21日、信興は一揆の手にかかって討ち死にするのは無念と考え、天守に登り切腹して果てます。9月の信治に次ぐ二人目の弟の犠牲でした。
11月22日、挙兵しながらも攻勢に出られない状況にあった六角義賢(承禎)父子は、織田軍と一戦を交えますが敗北し和睦。六角父子は、一時的に織田家に捕われの身となったという説もあるようですが、その後甲賀郡に拠点を移し、信長包囲網の形成などに暗躍し、反信長の活動を続け、やがて甲斐の武田家に身を寄せることになります。
11月25日、本願寺の勢力下にある堅田(滋賀県大津市)を守る猪飼野(いかいの)正勝・馬場孫次郎・居初又次郎の三人が織田方に味方することを伝えてきます。調略に成功した信長は、いつものようにこの機を逃さず攻撃を開始します。坂井政尚に1000の兵を与え出陣させます。この動きを察知した朝倉軍が動きます。
26日、朝倉義景の家臣・前波景当(かげまさ)が出陣。この軍にさらに一向衆門徒が加わります。兵数は不明ですが、坂井軍の数倍だったものと思われます。
坂井軍に織田方に寝返った猪飼野・馬場・居初らも加わり激戦を繰り広げますが、両軍かなりの死傷者を出し痛み分けで終わったようです。
『信長公記』では坂井らの活躍で勝利としていますが、他説では朝倉方が堅田の地を占拠し、坂井らはこの合戦で討ち死にしたとなっています。いずれにしても再びにらみ合いの状態になります。
11月下旬、一箇所に長期対陣している危険を感じていた信長は朝廷と将軍・足利義昭を動か浅井・朝倉軍に和睦をもちかけます。浅井・朝倉軍も兵糧が尽きはじめ、さらに11月下旬は今の暦で言うと12月下旬なので朝倉の領国越前(福井県)は雪の季節になり、退路を断たれる状況になることを恐れた義景の思惑が一致。
12月13日、和睦が成立。浅井・朝倉方は撤退が完了するまでの間、織田方からの人質を要求。これに信長は応じます。
14日、信長は勢田まで軍を撤退させます。
15日、浅井・朝倉軍は比叡山を下りそれぞれの居城に退去します。
17日、信長は大雪の中ようやく岐阜への帰国を果たします。浅井・朝倉とのにらみ合いは三ヶ月でしたが、7月下旬の三好三人衆の挙兵から考えると約五ヶ月の長期戦で一つ間違えば織田家の滅亡もありえた危機を何とかしのいだ信長でした。
ちなみにこの織田(美濃)・浅井(近江)・朝倉(越前)の和睦をそれぞれの領国の一字をとって「江濃越一和」と呼ぶようです。
信長包囲網の形成において中心人物になったのは、室町15代将軍足利義昭だと思いますが、その包囲網形成初期段階において大きな役割を果たしたのは、本願寺の法主・顕如であったように思われます。
12月13日の織田・浅井・朝倉の和睦について、顕如は翌14日付けの書状として早速、甲斐の武田信玄と連絡を取り合っています。しかし、その内容としては信長への敵対の件ではなく、表向きこの年7月に亡くなった信玄の正室・三条夫人を弔するもので、香典として黄金10両も贈っています。
実は信玄の正室・三条夫人と顕如の妻・如春は姉妹になります。さらに如春は六角義賢(承禎)の猶子となってから顕如に嫁いでいるという関係になります。
なぜ、約5ヶ月もたってからこのようなことを顕如はしたのか?やはり信玄との関係を深めたいという意図があったように思います。
顕如はさらに15日付の書状で上杉との合戦の勝利を祝福する内容の手紙を送り、それとは別に信玄の息子・勝頼にも書状と貢物をする徹底振りでした。
顕如は9月の挙兵以降、各地の門徒に檄文を送り、門徒を蜂起させ近江・伊勢長島の一向一揆は信長の弟を死なせるといった働きを見せ、浅井・朝倉の和睦が成立して信長は岐阜に帰国しましたが、信長の報復は必然で、その動きをけん制するためにはなんとしても武田家を味方に引き込む必要がありました。
信長も本願寺門徒の動きを警戒し、北陸から大坂への門徒の移動を封じ(実際は商人などに扮装して行き来していたようですが)、尾張の門徒の拠点となる富田の聖徳寺は信長に恭順の意思を伝えていましたが、尾張から伊勢へ行く門徒は処罰するとしています。
この年、羽柴秀吉の長男とされる石松丸(秀勝)が誕生。朝倉義景の次男・朝倉愛王丸、浅井長政の次男(三男)ともいわれる浅井井頼(浅井井規の子供説も)が誕生。
10月、徳川家康は上杉謙信と同盟を結んでいます。武田信玄との関係も悪化していたようですね。