元亀元(1570)年、信長37歳。
1月23日、信長は将軍・義昭との和解の条件として永禄12年1月に承諾させていた『殿中御掟十六ヶ条』に次の五ヶ条からなる条書を加えこれを承諾するよう義昭に迫ります。
その内容を要約すると
一、今後義昭が御内書(書状)を出すときは信長の添え状を付ける
一、これまでに義昭が出した御下知(命令)はすべて取り消す
一、天下の儀(政務)は信長に任せられているので、義昭の承認なしで信長の一存で決定できる
一、将軍には領地が無いのだから恩賞を与える場合は、信長の分国内で都合をつけること
一、将軍には(政ではなく?)宮中での儀式を行っていただく
義昭はこの時点では信長に対抗できるような軍事力もなく渋々この条件を飲み、取り合えず表面上の和解は成立しました。しかし、この後義昭は有力諸大名(勢力)に密書を送り続け信長との対決姿勢を強めていきます。
1月23日、義昭に突きつけた五ヶ条の条書と同日付で信長は全国の有力諸大名に上洛を促す書状を送っています。
その内容は「禁裏の修理及び幕府の御用、その他“天下静謐”のため二月中旬に(信長が)上洛するので各々方も上洛して朝廷や将軍に挨拶にくるように」ということだったようです。
静謐(セイヒツ)とは、「世の中が穏やかに治まっている」ことなので、「天下静謐のため」とは、“戦のない世を信長が作るため”という意味のような感じかもしれません。この書状は、朝廷と将軍への挨拶を強調していますが、要するに「信長に挨拶しに来い」と言っていると受け取れます。
2月25日、信長は予定よりもやや遅れて上洛の途につきます。
3月3日、出発が遅れたにもかかわらず、『信長公記』には安土の常楽寺にて“相撲大会”を催しています。これはゆっくり上洛して、書状を受け取った諸大名(勢力)がどのような反応を見せるか伺っていたものと思われます。
3月5日、京に到着した信長を事前に到着していた徳川家康や北畠具豊(信雄)・具房、三好義継、松永久秀、一色満信、三木自綱など多数の大名ほか公家衆や京の町衆が出迎えます。そして遠方の大名である宇喜多氏や大友氏も使者を派遣してきたようです。そんな中、近いにもかかわらず上洛してこない大名がいました。越前(福井県)の朝倉義景です。朝倉家にも書状は届けられていましたが、義景はこれを無視します。
信長はこれを口実に越前攻めを決断。ついに朝倉氏との戦いが始まります。
尚、この上洛の宴席で義昭は信長に再び「もっと上位の官職に就かれたらいかがでしょう?希望があれば朝廷に取り次ぎますよ」と気を使いますが、このときも信長は辞退します。
4月20日、信長は3万とも10万ともいわれる大軍を率いて出陣します。若狭(福井県南西部)の武藤友益を攻めるという名目での出陣でした。信長が毛利元就に当てた書状にも武藤氏征伐のことが書かれているようです。
この軍勢には徳川家康や幕府衆、そして公家の飛鳥井雅敦・日野輝資らも公家部隊として従軍していました。信長は京を発ち北に進みますが目標とする若狭に向わず朝倉領の越前敦賀に侵入。朝倉方の寺田采女正が城主を務める天筒山城に攻めかかります。要害の城でしたが兵力にものを言わせ信長には珍しく力攻めでわずか一日で陥落させます。討ち取った敵兵は1370。織田方の損害も多大なものだったことが想像されます。
ついでその北方の朝倉義景の従兄弟・景恒が守る金ヶ崎城に迫ります。景恒は織田の大軍を前にあっけなく降伏し城を明け渡します。この状況に南方にある疋壇城も戦わずに城兵の多くが逃亡し開城します。これにより信長はわずか二日間で越前西部の敦賀全域を支配します。
木ノ目峠を越え一気に越前中央部に攻め入ろうとした時、思いもよらぬ情報が信長のもとに飛び込んできます。
「浅井長政の裏切り」
信長は当初信じようとしませんでしたが、次々と同様の情報がもたらされ撤退を決意します。
このときの有名なエピソードとして、長政の元に嫁いでいた信長の妹・お市が小豆を小袋に入れて両端を紐で結んだものを信長に届けさせ長政が裏切り、信長が袋のねずみであることを知らせたという話もありますね。
4月28日、信長は撤退準備を進めますが、織田軍は数万の大軍勢で、一つ間違えば大混乱に陥る大事な退却戦の殿軍(しんがり)を任されたのは木下秀吉(後の羽柴秀吉)でした。しかし秀吉の活躍だけが取り上げられますが、実はこの殿軍には明智光秀と摂津の池田勝正もおり、主力になったのは池田の軍勢だったようです。
その日の夜、信長の決死の脱出劇が始まります。本能寺の変の際の“家康の伊賀越え”を思わせる“信長の朽木越え”です。信長はわずかな供回りを連れ脱出を図ります。
金ヶ崎の退き口で問題になったのが、金ヶ崎から京へ向かうルート上の中央・朽木谷を領する朽木元綱の動向でした。この時期、朽木氏は幕府の奉公衆でありながら、浅井氏の命に従っているという複雑な立場。
この朽木氏は義昭が流浪時代、一時義昭を庇護したこともあり幕府寄りの人物でした。この朽木氏が信長に付くか?浅井長政に付くか?重大な決断に迫られます。しかし、朽木元綱は迷うことなく信長に付くことを決め脱出を手助けします。この時点でまだ信長と将軍・義昭は決別していなかったので、信長に付いたのかもしれませんが、松永久秀が朽木元綱を説得したという話もあるようです。
30日夜、朽木元綱の活躍により信長は無事京にたどり着きます。このとき信長に付き従っていたのはわずか10人だったそうです。
5月上旬、近江の織田領守山にて六角氏が扇動したといわれる一揆が起きます。しかし、警護に当たっていた稲葉一鉄・貞通・重通父子や斎藤利三らによって鎮圧されます。
5月9日、信長は織田に従う近隣の大名や武将から人質を取ると将軍義昭に預け岐阜へ帰国することを決めます。
琵琶湖岸周辺に柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀・木下秀吉・中川重政らの重臣を配置し京と岐阜の上洛ルートを確保します。
信長の帰国を察知した浅井長政は、一揆を扇動して信長の帰国を阻みます。この危機を脱するため信長は南へ迂回し千草峠を越えるルート(近江永源寺から伊勢の千草に向う)を選びます。
5月21日、信長は再び危機を迎えます。六角氏はこれを予期していたのか鉄砲の名手といわれる杉谷善住坊という者を千草山中に待ち伏せさせます。予想通り現れた信長をめがけ善住坊は二度狙撃します。幸いにして二発とも信長の体をかすめただけで大事には至らず、無事岐阜に到着します。
6月4日、六角義賢父子が甲賀や伊賀の土豪を従え草津方面で再び挙兵します。旧主の呼びかけに応じた者、数千。柴田勝家や佐久間信盛が出陣し、落窪にて激突します。数時間に渡る激戦の末、織田方が勝利します。この戦いで六角氏の重臣・三雲定持・成持父子や高野瀬美郷ら780人が討ち取られ、六角軍はちりじりになります。
6月、信長は浅井氏の家臣の切り崩す策を推し進め、姉川の南方、美濃・近江の国境にある長比砦(たけくらべ)の樋口直房、刈安砦の堀秀村を寝返らせることに成功します。
6月19日、樋口や堀の取り込みに成功した信長はすかさず浅井氏討伐のため出陣します。この日のうちに長比城に入城し軍勢を整えます。織田軍の兵数は諸説ありますがおよそ1万5000~2万強だったと思われます。
21日、軍備を整え小谷城に向け出陣し、小谷城南方の虎御前山に布陣。堅固な小谷城を見て信長は無理に小谷城を攻撃するのは得策でないと判断し作戦を変更します。
小谷城から南の姉川を越えた場所にある横山城を目指します。織田軍が退却するのを見た浅井軍は追撃してきます。このときの浅井軍は、どのくらいの兵数か不明ですが、姉川の合戦に出陣してきたのが6000といわれるのでそれより少ない軍勢が追撃してきたものと思われます。この退却時の殿軍には梁田広正・佐々成政・中条家忠が命じられます。臨時に織田軍の各部隊に鉄砲衆を出させ総勢500挺の鉄砲隊に弓衆30人を加え三人に指揮させます。
『信長公記』によれば、一番手に梁田広正、二番手に佐々成政、三番手に中条家忠が戦いそれぞれが退いては返し戦いながら退却したようで、この戦いで中条家忠は負傷しながらも敵兵を討ち取るなど三将とも見事な活躍で無事殿軍の役を果たしたようです。
24日、信長は姉川の南岸、竜ガ鼻に布陣し、横山城を包囲。まもなく徳川家康も5000の兵を率いて到着します。この家康の到着とほぼ同じ頃、小谷城にも朝倉からの援軍8000が到着。この朝倉軍を率いたのは朝倉義景本人ではなく、その従兄弟の朝倉景健でした。
27日夜、浅井・朝倉連合軍は夜陰に紛れ出陣。翌朝、姉川の北岸、野村に浅井軍6000、三田村に朝倉軍8000が着陣。南岸の織田・徳川連合軍約2万5000。姉川を挟んで浅井軍の向かいに織田軍、朝倉軍の向かいに徳川軍が相対する形で両軍は睨み合うことになります。
28日早朝(午前6時頃)、数に劣る浅井軍が織田軍に強襲を仕掛けてきます。これに対するは信長の馬廻り衆と美濃三人衆の軍勢でした。
この合戦で最も気合が入っていたのが浅井長政の軍勢でした。信長を裏切ったからにはなんとしてもこの合戦で勝利し、織田の勢力をそぐ必要があったためだと思われます。下手に長引き冬になってしまうと越前の朝倉軍が雪のため出兵できなくなる恐れもあり何とか決着を着けたかったのかもしれません。
織田軍は数で圧倒的に劣る浅井軍を相手にかなりの苦戦を強いられます。一時は信長本陣まで浅井軍は迫ったとも言われます。他説では本陣まで攻め込まれ信長は一キロ余り逃げたとの説もあるようですが、これは江戸時代の書物が徳川軍の活躍を大げさに書いたものと思われます。
この窮地を救ったのが徳川軍で、朝倉軍の側面を突き朝倉軍が総崩れになったといわれていますが、これも出所は江戸時代の書物で真偽の程は定かではなく、『信長公記』に出てくる織田・徳川連合軍が討ち取った武将のほとんどが浅井の家臣で朝倉の家臣の名前はわずかしか出てきません。ただ、『信長公記』は信長の家臣が書いたものなので、織田軍の活躍しか書いていないのかもしれません。この戦いで徳川と朝倉の戦いは小競り合い程度だったとの説もあります。
8時間に及ぶ激戦だったようですが、数に勝る織田・徳川連合軍が徐々に形勢を有利にし浅井・朝倉連合軍は総崩れになり退却を始めます。浅井・朝倉軍は退却時の織田・徳川軍の追撃により多くの将兵を失います。織田・徳川連合軍は小谷城近くまで追撃しますが、小谷城への攻撃は行わず反転して再び横山城を包囲します。援軍が敗北したことにより戦況は絶望的となり横山城の将兵は信長に降伏、城を明け渡します。信長はこの横山城に木下藤吉郎(羽柴秀吉)を入城させます。
信長はこの合戦の結果を細川藤孝や毛利元就に手紙で知らせていますが、「野も田畑も死骸ばかり」と表現しており多くの死者が出たようです。しかし、浅井・朝倉共に重臣といわれる者はほとんど無事で信長はこの戦いで、浅井・朝倉に致命的な打撃を与えることができませんでした。
6月下旬、信長は横山城の南方にある磯野員昌が守る佐和山城攻めを命じます。降伏勧告に従わなかったため、丹羽長秀・市橋長利・水野元信・河尻秀隆らに命じ、城を包囲させます。磯野員昌はこのまま籠城し、長期にわたり耐え、織田軍を苦戦させます。