永禄11(1568)年、信長35歳。
2月、信長は滝川一益に命じ、北伊勢の有力領主神戸氏攻略に乗り出します。
美濃を平定した織田軍は神戸氏より圧倒的な軍事力があり、神戸氏は籠城して対抗します。信長は上洛を予定していたため兵力を少しでも温存したかったためと思われますが和睦戦術を取ります。信長は三男・信孝を跡継ぎのいない神戸具盛の養子にするという条件を示します。具盛はこれを受け入れ降服し織田家の配下となります。
ついで国司・北畠具教の次男でわずか十歳の具藤が当主となっていた長野氏攻略に乗り出します。長野家は家老・細野藤敦率いる北畠派と、その弟で同じく家老を務める織田派の分部光嘉が対立・分裂していました。
織田派の分部光嘉が他の老臣と謀って当主・具藤を安濃津の安濃城から追放し、織田家から信長の弟・信良(後の信包)を長野家の養子として迎え入れ織田家の配下となります。
北伊勢の有力領主である神戸氏や長野氏が織田に降ったことで、その配下のほとんどの小領主が織田の傘下に入ることになり、大きな戦をすることなく信長は北伊勢を領国とすることに成功します。
これにより上洛の道が大きく開けたことになります。
信長と出会う前の足利義昭はどのような状況だったのでしょう?
既にふれたように、永禄8(1565)年5月19日足利義昭の実兄・13代将軍足利義輝は松永久秀や三好三人衆に攻められ殺されました。
この頃、義昭は出家して覚慶と名乗り奈良の興福寺一乗院の門跡となっていました。久秀や三好らは、義輝を殺害すると、次に末弟の鹿苑寺院主の周暠(しゅうこう)も殺害しました。そして、次弟の興福寺の覚慶のもとにも松永・三好軍が迫ってきました。しかしなぜか覚慶は殺害されず、幽閉されただけで済みました。次期将軍に覚慶を就任させる考えがあったのかもしれません。
約2ヵ月後の7月下旬、細川藤孝を中心とした幕臣らが協力して覚慶を救出して近江国甲賀の和田惟政の館に匿います。ここで還俗して、名を義秋(のち義昭)とします。この直後と思われますが、義輝・義昭の従兄弟にあたる義栄が松永久秀らに擁立され足利家の家督相続を認められてしまいました。(この時点で義栄はまだ将軍にはなっていません)
危機を感じた覚慶や細川藤孝ら幕臣は覚慶を擁して上洛してくれる大名を探します。武田や上杉・北条らは有力大名でしたが京からやや遠く互いに争っている状況で難しい情勢でした。近江を治めていた六角氏も家中に問題を抱え上洛どころではありませんでした。
そんな中、永禄8(1565)年12月、まだ尾張一国の大名だった信長が細川藤孝に上洛の意思のあることを書状で伝えます。
この書状を受け、翌年永禄9(1566)3月、細川藤孝らは織田家と斎藤家の和睦を働きかけます。この策は成功し、信長の上洛が8月に決まります。しかし、これを知った松永久秀や三好らは、斎藤義龍に働きかけこの和平工作を破綻させます。これにより8月の上洛が不可能になり、義秋や藤孝らは信長をあきらめます。
閏8月、近江を出て若狭の武田義統を頼りますが、義統も上洛の力がない判断します。
9月、義秋一行は越前の朝倉義景のもとへ赴きます。しかし、朝倉義景も上洛の意思を明確にしないままこの後、一年近いの月日を費やすことになります。
信長は義秋一行が流浪する間、浅井長政や武田信玄とも同盟を結び、美濃斎藤氏を滅ぼし上洛の準備を着々と進めていきます。尾張・美濃二カ国の大名となった信長に、義秋や細川藤孝らは再び目をつけます。
永禄11(1568)2月、松永久秀らに擁立された義栄が第14代将軍に就任します。
そのような状況下、細川藤孝は信長と交渉を再開。信長に義秋を奉じて上洛する意思のあることを確認。
4月、義秋は名を義昭に改め、足利義昭となります。
7月25日、義昭一行は美濃立正寺に迎えられ、信長と義昭は出会います。そして、運命の出会いがもう一つ。この時かまたは事前交渉の頃、明智光秀とも初めて顔を合わせたものと思われます。信長・義昭・光秀。運命の出会いでした。
8月、信長はいよいよ上洛の時を迎えます。上洛に際し、通過する近江の北部(江北)はの浅井長政が治めており信長の妹・お市が結婚して同盟関係にあったので、実質的に問題になるのが南近江(江南)の六角氏だけでした。
8月7日、信長は近江の佐和山へ出向き、義昭の使者に自分の使者も同行させ六角義賢(承禎)・義治父子のもとへ送ります。義昭に人質を差し出し上洛軍に加わるよう説得。「上洛した際には、幕府所司代に任命する」など、七日間にわたり交渉を続けますが、この頃、畿内を治めていた三好氏と誼を通じている六角義賢は承諾せず交渉は決裂。信長は六角氏征伐を決断します。
9月7日、信長はついに上洛の軍を進めます。この日、立正寺(立政寺・岐阜市)の足利義昭のもとへ信長は上洛の挨拶に行きます。そこで「近江を一気に征伐して、お迎えを差し上げましょう」と伝え、出陣します。この時、引き連れた上洛軍は、徳川氏や浅井氏などの援軍を含めた、計6万の大軍勢でした。
9月8日、近江・高宮に着陣。二日間駐留し、人馬を休めます。
11日、愛智川付近に布陣。信長自ら馬で駆け回り敵情を視察し、攻撃目標を六角氏の本拠・観音寺城と箕作山城に定めます。
12日、佐久間信盛・木下藤吉郎(後の秀吉)・丹羽長秀・浅井政澄らに命じ箕作山城を攻めさせます。夕方に攻め始めその日の夜には落城させます。信長は、翌日六角氏の本拠・観音寺城を攻める予定でしたが、あっという間に箕作山城を落した織田軍に恐れをなしたのか、六角氏は父子共々逃亡してしまいます。
城主を失った観音寺城の将兵は人質を差し出し降伏。信長はあっけなく近江を平定してしまいます。信長はすぐさま不破光治を義昭のもとへ向かわせ入洛の準備をさせます。
21日、足利義昭本人も京へ向けて出発します。
26日、信長は三井寺極楽院(滋賀県大津市)に陣取ります。
27日、信長は三井寺光浄院で義昭を出迎えます。
尚、六角父子は、この後反信長勢力と手を組みゲリラ戦を展開。斎藤龍興と同様に信長に抵抗しつづけます。
9月28日、信長はついに京へ入ります。東福寺に陣を構え、先陣の柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成・坂井政尚の軍は桂川を越え、青竜寺(勝竜寺)の三好三人衆の一人・岩成友通を攻めます。三好勢も抵抗しますが50人余りを討ち取られ、籠城を余儀なくされます。この勝利で安心したのか足利義昭も京の清水寺に入ります。
29日、信長が出陣してくると観念したのか岩成友通は降伏します。この後も織田軍は次々と三好方の城を攻撃します。芥川城の細川昭元・三好長逸もたいした抵抗も出来ないまま退去。この芥川上には武田信玄に追放された信濃守護の小笠原長時そうです。篠原長房も越水・滝山の城を捨て退去します。
無人となった芥川城に足利義昭は入城します。織田軍は攻撃の手を緩めず、池田勝正の居城・池田城も攻めます。ここでの抵抗は凄まじかったようで織田方にも討ち死にする者が多数出ましたが、圧倒的な織田軍の前に池田勝正も人質を差し出し降伏します。
松永久秀は抜け目なく、最高級の茶入れ「九十九髪」を信長に献上し、信長の軍門に下ります。こうして、織田軍は上洛後数日間であっけなく畿内および周辺の国を配下に治めます。その信長のもとへ今井宗久やその他多くの人々が献上品を持って次々と挨拶に来たそうです。
10月中旬、義昭は芥川城から本国寺(本圀寺)に移ります。
10月22日、義昭は内裏に参内し、征夷大将軍に任命されます。室町幕府最後の将軍となる15代・足利義昭の誕生です。
なお、三好三人衆に擁立され14代将軍になっていた義栄は入京を果たせないまま、織田軍の上洛の知らせを受け阿波国に逃れその地で死去したとも、信長上洛直前に病死したとも言われています。いずれにしても、義栄は将軍在位期間わずか7ヶ月の短命に終わりました。
しかし、信長上洛前、畿内及びその隣国さらに四国の一部まで支配していた最大の勢力を誇り当時の“天下人”であった三好氏は、なぜあっけなく敗れたのか?それは、足利義栄の擁立にあたり三好三人衆とそれに反対する三好家当主・義継及び松永久秀の対立があり、信長上洛前にすでに三好家は分裂状態になっていたようです。さらにその内部対立に反発する家臣らの離反もあり、とても織田軍とまともに戦える状態ではなかったと考えられます。
10月22日?、足利義昭を将軍の座に就けた信長は早速、畿内の人事を行います。京・山城には義昭配下の細川藤孝を配し、摂津・高槻城には同じく義昭配下の和田惟政を入れます。その他摂津・伊丹城には伊丹忠親、摂津・池田城には池田勝正、河内・若江城には三好義継、河内・高屋城には畠山高政、そして大和には松永久秀を配します。
お気付きのように義昭配下以外の武将は信長に降伏した旧三好系の武将ですが、そのまま所領を安堵しています。前述のように三好家は信長上洛前にすでに内部分裂しており、信長に降伏したほとんどの武将が“反三好三人衆派”の者で、所領を安堵することで敵対関係に陥ることを避ける狙いが合ったと思われます。
松永久秀に関しては、信長上洛の二年も前から信長と通じていたという話もあります。久秀は義昭にとって兄・義輝を殺害した憎き敵でしたが、信長のとりなしで許されたようです。信長は松永久秀に利用価値があると見たのでしょう。久秀もまた信長に従うことで自らの野望を達成する機会を待つことにしたのかもしれません。
人事のほか信長は領国内の関所の撤廃も決め、ますます民衆の支持を集めていきます。このようにひとまず畿内は新将軍・足利義昭と信長のもと治安を回復しました。
義昭は、信長に感謝の意を表すため能楽を催します。 能は13番まで予定されていましたが、信長はいまだ近隣諸国の平定が終わっていないという理由から演目を5番に縮めさせました。
このとき義昭は細川藤孝や和田惟政らを使者として、信長を副将軍か管領職に任命しようとしますが信長はこれを辞退します。これを知った多くの人々はみな感心したそうですが、すでにこのときから信長は義昭を傀儡と考えていたことが伺えます。
10月24日、信長は義昭の下を訪れ、岐阜に帰国する挨拶をします。
25日、信長は義昭からの感状を受け取ります。 その内容は、「信長のおかげで賊徒を短期間で打ち破ることができ、将軍家が再興できたことを感謝し、この後も頼りにしている」というものでした。 そして、この文書の最後の宛名に「御父 織田弾正忠殿」としるし、信長を父のように敬う気持ちを表しています。さらに追申として、足利家の紋章である『桐紋』と『引両筋』の進呈する内容の文書も書かれていましたが、その最後にも「御父 織田弾正忠殿」としるしています。なお、信長はこの『桐紋』と『引両筋』は受け取りました。断りすぎると義昭の心象も悪くなるし、受け取ったとしても実害はないと判断したのでしょう。
10月28日、信長は無事岐阜に帰国します。
この年、信長の四男でのちに羽柴秀吉の養子となり羽柴秀勝と名乗る於次(おつぎ)が誕生。同じ頃、のちに武田家の人質となる五男・御坊(のちの勝長・信房)も誕生しますが、御坊の誕生の年がはっきりしないため四男と五男は逆の可能性もあります。同年、黒田長政や伊達成実がも誕生します。
また、12月には武田信玄が駿府へ攻め込み今川氏真が掛川城に退去しています。