永禄3(1560)年、信長27歳。
信長の父・信秀の死後、今川に寝返っていた鳴海城の山口教継とその息子・教吉は、調略により近隣の大高・沓掛の両城も今川方に寝返らせていました。しかし既にふれたように、山口父子は桶狭間の合戦前に、織田方に再び寝返るという噂により殺されてしまいます。
信長は今川方に寝返った鳴海・大高を封鎖するべく周囲に付け城と呼ばれる砦を五箇所作ります。鳴海に対し丹下・善照寺・中嶋の3箇所、大高に対し丸根・鷲津の2箇所。
鳴海・大高は、この付け城により、孤立した状態になっていました。今川義元はこれを救出し、三河の国境近くの織田領を完全に今川の勢力下に置くため4万5千(2万5千とも)の大軍を率いて出陣します。
5月10日、先鋒・井伊直盛が出陣します。この中には、松平元康(後の徳川家康)も入っていました。
5月17日、今川義元本隊が沓掛に到着します。
5月18日、義元は松平元康に大高城への兵糧入れという困難な任務を命じます。
大高城は織田方の丸根・鷲津に囲まれ、そこに兵糧を運ぶのは非常に危険な任務でしたが、元康は見事、これを成し遂げます。
この日、一方の織田方ですが、次々と不利な情報がもたらされますが、軍議らしい軍議も開かれないまま、深夜になり、家老たちの間では、「運の末には知恵の鏡も曇るとはこのことだ」とあきらめ半分でそれぞれ帰宅しました。
5月19日明け方、信長の下に佐久間大学盛重と織田玄蕃秀敏からの使者が鷲津・丸根の両砦が今川軍の攻撃を受けているとの情報をもたらします。この情報を得た信長は出陣を決意。一世一代の大勝負を前にして信長は『敦盛』を舞います。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」
舞い終わると、「法螺貝を吹け!具足をよこせ!」と叫び、鎧をつけ、立ったまま湯漬けを喰らい、兜をかぶって出陣します。この時従ったのは、小姓の岩室長門守・長谷川橋介・佐脇良之・山口飛騨守・賀藤弥三郎。わずか主従6騎。熱田までの三里(12km)を一気に駆けます。熱田に着いた頃には足軽約200人も合流していました。
この時、鷲津・丸根方面を見ると既に煙が上がっており、両砦は松平元康軍により落とされていました。信長は、熱田神宮で戦勝祈願を済ませるとまず丹下砦に向かい、次に佐久間信盛の守る善照寺砦に入ります。ここに将兵を集結させ、陣容を整えると戦況を見極めます。
この頃、今川義元は桶狭間山にて人馬を休ませていました。鷲津・丸根の攻略に満足し、謡を三番うたっていたそうです。
松平元康も鷲津・丸根の攻略にかなり苦労したようで、大高城にて人馬を休ませていました。
一方、信長が善照寺砦に入ったのを知った佐々隼人正勝通と千秋四郎秀忠は抜け駆けし出陣。300人の手勢を率い今川の大軍に攻撃を仕掛けますが当然ながら、佐々・千秋両将を含む、50騎ほどが討ち死に。義元を喜ばせただけで、信長は一人でも多くの兵が必要だっただけに大きな痛手だったと思われます。
この佐々・千秋軍の中には、この頃出奔していた前田利家が信長の許しを得るためこっそりと戦闘に参加していました。そして敵の首を持ち帰ってきたそうです。
19日昼過ぎ、信長は、佐々・千秋軍の戦況を見て善照寺砦から中嶋砦に移ろうとします。中島砦に向かう道は、両側が深田で細く、隊列が一列になり、敵からも丸見えの状態になってしまう非常に危険な道でした。このため家老衆は信長の馬のくつわに取り付いて必死に止めます。
しかし、信長はこれを振り切り中嶋砦への移動を強行します。この時、信長軍わずかに2千足らず。徐々に今川軍本隊との距離を縮めていきます。中嶋砦に到着した信長は、すぐさま出撃の体制に入りまが、再び家老衆に止められます。
この時、信長は「今川の軍は夜通し行軍し、大高へ兵糧を入れ、鷲津・丸根に手をやき疲れ切っている者たちだ!こちらは新手の兵である!」と自軍の目前にいる今川勢が井伊直盛や松平元康の先鋒部隊と勘違いしていたようです。
そして、「少数の兵だからといって大軍の敵を恐れるな!勝敗の運は天にある!敵が掛かってきたら引け、敵が退いたら攻めか駆れ!敵を練り倒し、追い崩すのはたやすい!敵の武器は分捕るな!そのままにしておけ!合戦に勝てばこの戦に参加した者の家は末代までの高名であるぞ。ひたすら励め!」と将兵に檄を飛ばします。そこへ佐々・千秋軍に加わって無事だった者たちが合流。それぞれ敵の首を持ってきていました。これらの兵にも同様の指示をし、信長は軍勢を進めます。
山際まで来たところで激しい雨が降りつけます。この大雨で沓掛峠にある大きな楠の木が倒されたそうです。この時、信長軍の中では「この合戦は熱田大明神の神慮による戦いか」と皆が言ったそうです。
雨があがるのをみて、信長は槍を取り、大声で「それ掛かれ!掛かれ!」と叫び、ついに本隊同士の戦闘が開始されます。合戦前の朗報で油断していたのか、信長軍の勢いに圧倒されたのか、今川本隊の前衛部隊はあっけなく崩れ去ります。大混乱に陥った今川軍は、弓や槍・鉄砲・旗指物や幟なども打ち捨てて後退していきます。今川義元自身も輿(コシ)をから降り、300騎ほどの旗本衆に囲まれながら退却します。後方に退き、体勢を立て直そうとしますが、それを見つけた信長は、すかさず「義元の旗本はあれだ!あれに掛かれ!」と命じます。
打っては退き、退いては掛かりと四・五回繰り返しているうちに旗本衆も50騎ほどになり、信長も馬から降り戦います。乱戦の中、服部小平太春安が義元に切りかかかります。義元が膝元を切られて倒れたところへ、今度は毛利新介良勝が打ちかかり義元の首を取ります。義元討ち死により、今川勢は総崩れとなり織田方の追撃の中、次々と多くの兵が討ち取られます。
信長の下に若武者が次々に敵の首を持参しますが「首はどれも清洲にて検分する」といい、義元の首のみをその場で見て、満足した様子で清洲に帰陣しました。「街道一の弓取り」と呼ばれた今川義元は42歳でした。
この勝利により信長は一躍近隣諸国に注目される大名となり、戦国大名として大きな一歩を踏み出しました。
19日夕刻、討ち取った、義元の首実検を終えた信長は、その首を馬の先にぶら下げ、急ぎ清洲城に向かい日の沈まぬうちに到着します。
20日、清洲城にて義元以外に討ち取った者の首実検が行われますが、その数は三千余りだったといわれています。生け捕りにされた兵も多く、その中に下方九郎左衛門という者が捕らえた義元の同朋衆(芸能・茶事・雑役を行なった僧)の権阿弥がいました。権阿弥は、義元が使っていた鞭や弓懸(弓を射るときの皮の手袋)を持っていて、それを信長に差し出しました。そして、義元の合戦前後の状況を尋ねられそれに答え、討ち取られた今川勢の首に知っている者の名前を書き付けました。
信長は、権阿弥に金銀飾りの大刀と脇差を与え、義元の首を持たせ駿河に送り返しました。この際、10人の僧を随行させたそうです。ちなみに義元の胴体は駿河へ戻る途中の大乗寺に葬られました。
この後、清洲から熱田へ通じる街道に義元塚と呼ばれる塚を建て、供養のために千部経を読経させ、大きな卒塔婆を立てました。
信長は、義元を討ち取った際、義元が差していた名刀・左文字は召し上げ、刀の茎(なかご)に「永禄三年五月十九日 義元討捕之刻彼所持刀」と金象嵌でいれ所有しました。
義元討ち死にしましたが、依然尾張国内では、今川勢がわずかですが抵抗していました。鳴海城には今川の重臣・岡部元信が籠城していましたが降伏し命は助けられ帰国。その他、大高城の松平元康や鵜殿長照、沓掛城や鴨原城などに籠城していた今川勢も降伏し帰国しました。
信長は、この合戦に大勝利したお礼として後に「信長塀」と呼ばれる築地塀を戦勝祈願した熱田神宮に築造・奉納しました。
今川義元討ち死にした19日夕刻のことに話が戻りますが、大高城にいた松平元康(後の徳川家康)のもとに義元討死の報が入ります。元康は当初、その情報は織田方の流言(策略)と思いすぐには城を出ませんでした。
その後、叔父で信長と同盟関係にあった水野信元配下の者からも同様の知らせが入りますが、慎重な元康は、動かず念のため籠城の準備を進めます。そこへ重臣の鳥居元忠からも義元討死の知らせを受け、ここでようやく真実と判断し、退却を決めます。
岡崎まで来た元康は、まず、松平家の菩提寺である大樹寺に入ります。そこへ今川家臣がやってきます。そして、今川家臣はみな駿河へ帰国することを望んでいる旨を伝えます。本音としては、織田軍の攻撃を恐れ一刻も早く逃げ出したかったようです。この家臣等は、「この城は松平家の城であるから、元康殿が入ってくだされ」と促しますが、元康は「今川殿(義元の嫡男・氏真)の指図がなければ入城できない」と入城を拒みます。今川家には家康の長男・信康や正室の築山殿が居り、うかつに入れば反逆したと思われる危険性があったための駆け引きでした。
織田軍が攻めてくるかもしれないという恐怖から今川家臣は、元康が入城を承諾しない状況にありながら城を捨て駿河に退却してしまいます。
23日、義元が討死から4日後、元康は「捨て城なら拾う」と、ついに岡崎城へ入城します。約13年に及ぶ人質生活を終え、独立を果たした瞬間でした。時に元康、19歳。
この年、のちに関ヶ原合戦直前の家康の上杉征伐のきっかけとなる「直江状」で有名な直江兼続や大坂の陣で活躍することになる後藤又兵衛基次らが誕生します。