【信長史】~1533 信長前史編

《信長誕生以前の織田家》

■織田家発祥の地 ~平家説の由来~

織田信長が誕生した尾張。その守護を務めた室町幕府の三管領のひとつである斯波氏が尾張以外で守護を務めた国に越前国があります。(ちなみにその他、若狭・越中・能登・遠江・信濃などがあります)
この地は織田家発祥の地といわれています。

 

現在の福井県丹生郡織田町(なんと平成17年2月1日 朝日町、宮崎村、越前町及び織田町が合併し、「越前町」となり「織田町」は無くなってしまいました。ホント「平成の大合併」で日本各地、歴史のある地名がどんどんなくなってしまいますね・・・さびしい!)


古くは越前国丹生郡織田荘(「オタ」と読むようです)と呼ばれていました。
以前、大河ドラマ「義経」が放送されましたが、これに登場する、平重盛(勝村正信)の次男・平資盛(小泉孝太郎)が西国に去った際、都に残った愛妾の一人が男子を産みます。


しかし、平氏一族のため身に危険が及び、都にいることが困難になり、近江国津田に身を隠します。この地で、この愛妾は村長と再婚し数人の子をもうけます。ある時、この地に越前劒神社の神官が跡継ぎを求めてやってきます。そして、このとき貰われていったのが平資盛の子でした。成人し、神官を継いだこの男子は名を親実とし、織田姓を名乗ります。


応永5-61398-9)年頃、この織田親実の八代後の子孫・常昌が越前守護・斯波義将に仕え、その子・義重のとき尾張守護代として織田常昌が派遣されます。ここに尾張織田家が誕生します。


このため織田信長は平氏の末裔ということらしいです。一時は藤原姓も名乗っていましたが・・・その他の説として越前・忌部氏の末裔とも言われており、この説がどうも有力らしいです。信長誕生の約130年前の出来事になります。

 


■信長の父・織田信秀の略歴

信長の幼少期及び家督相続と時期が重なってしまいますが、簡単に信長の父・信秀の事績について触れたいと思います。

 

永正7(1510)年、尾張にて誕生。父は織田信定。通称三郎、弾正忠のち備後守を名乗ります。尾張守護・斯波氏の家臣に当たる尾張国下四郡の守護代・織田大和守達勝に仕えた清洲三奉行の一人として活躍します。

 

天文元(1532)年、主家の大和守達勝と対立。翌年には和睦。

天文3(1534)年、この年信長が誕生。 

天文6(1538)年、今川氏豊の那古野城を奪い、これ以降、永禄3(1560)年の桶狭間の戦いまで今川家と長い抗争が繰り広げられることになります。

 

天文9(1540)年、三河国安祥城を攻略し、三河進出の拠点を得ます。

天文11(1542)年、三河小豆坂にて今川義元勢を破る(第一次小豆坂の合戦)

天文16(1547)年、美濃国斉藤道三と加納口にて合戦。稲葉山城下まで迫るも敗れます。


天文17(1548)年、再び三河小豆坂にて今川軍と激突。この戦いに敗れる(第二次小豆坂の合戦)。この年秋、斉藤家と和睦。信長と帰蝶の婚姻が成立。


天文18(1549)年、三河国安祥城を今川・松平連合に奪われ、長男・信広が人質となり、竹千代(後の徳川家康)と人質交換を行う。


天文20(1551)年3月3日、流行の病で死去。享年42歳(没年には諸説あり)法名は万松院桃巌道見。

 

信秀は、交易の重要拠点である湊町・津島を支配下に置き、その経済力により一時は尾張下四郡や西三河にまで領地を拡大し、織田家随一の勢力を誇りましたが、尾張統一を果たすことなく他界します。しかし、信秀が残した家臣や遺産を引き継いだ嫡子・信長は、一族との戦いを制し尾張を統一。そして天下統一を狙えるまでに織田家を成長させることになります。